2018年4月13日金曜日

近代民主主義の根源とルネサンスの霊的変容はヘルメス主義にあった

近代民主主義の根源


民主主義自体は古くギリシャにあるとされていますが、現在の世界の政治に繋がる近代の民主主義の根源についてインスピレーションがありましたので書いてみます



民主主義の根底にあるのは人間一人一人は、尊い価値のある存在であるということ
人間は神の子として、神の似姿として創造され、神の息吹の込められた存在である
そうした思想が根底にあると思えます

近代民主主義は西洋から流れてきたわけですが、西洋にはキリスト教が流れています

中世のキリスト教では教会の権力がつよく、何が人にとって義であるかを定め、その罪の贖罪の権限を教会が握っていたと言えます

キリスト教会にとっては人間は罪深い存在としていたほうがよいわけです

その罪深い人間を救えるのは教会に権限があるわけですから、人間が罪深いほど教会の力は増していきます

ですから中世には教会権力が腐敗したり、魔女狩りが横行したりしました

その状況では、人間は神の子であり、尊い存在という思想は出て来ないはずです

そこでルターらのプロテスタントの運動が反動のように生まれてきます

ルターの考えでは「人は教会の免罪符によってではなく神を信ずる信仰によってのみ救われる」と主張したわけですね

つまり今までは教会の権限が絶対的で、人の救済にあずかれるかは教会の仲介が必要だったわけですが、教会を介さずに直接個人が信仰によって神とつながり、救われるという考えを出します

今までは義を行えない罪深い存在であった人間が、呪縛を離れて信仰によって尊い存在へと変容していったと言えます

その流れから教会という組織の権限と貴さが、個人個人の貴さへと移ってきたのでしょう

そこから個人を尊重し、人権を尊重する民主主義が生まれてきたのだと思います

マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で西洋近代の資本主義の原動力を、カルヴィニズムにおける宗教倫理から産み出された世俗内禁欲と生活合理化であるとしましたけど、わたしはルターによる思想が近代民主主義の運動の原動力ではないかと思います

これは同じことを主張する考えは見たことがないのでオリジナルな考えかもしれません

そして個人が尊重されることによって、個人(民衆・国民)の求める権利として自由と平等がありました

ですが自由と平等とはお互い矛盾するところがあります

自由を重視すると個人個人の活動によって格差が生まれます

一方、平等を重視すると、個人を平均化させるため自由が抑圧されるようになります

アメリカや西欧も、かつてのソ連や中国・北朝鮮もどちらも民主主義を標榜しております

同じく民主主義を標榜しながら対立しているのは、上記のように自由を重視するか、平等を重視するかの違いとして別れています

欧米は個人の自由を重視した勢力と言え、共産主義(中国・北朝鮮)は平等を重視した勢力と言えます

ルターらのプロテスタントの動きが活発となった時には、カトリックの勢力との対抗があったわけですが、信条によって(プロテスタントかカトリックかなど)迫害されたり不利益をこうむらないように、信教の自由が重視されました

信教の自由から思想・言論の自由などの人権思想が確立されてきたわけですね

そしてルターの活動時期に農民の一揆運動もありました

この運動は、個人の権利が尊重されるならば、貧しい農民として虐げられるのは納得がいかないという人間平等思想が根底にあったのでしょう

ルターはそちらのほうは加勢しませんでした
連動して興った農民一揆について批判的な立場をとりました
平等思想より自由を尊重する思想に重きをおいたのだと思います

そうした個人を尊重する思想をさらに遡ると、ルネッサンス期のギリシャ哲学とヘルメス主義の流布が影響しています

それについては以下で述べてみます

ルネサンスと霊的変革


ルネサンスとは中世キリスト教圏の特にイタリアを中心になされたもので、古典の復興とも言われています


なぜ古典かと言うと、中世ヨーロッパではキリスト教が絶大な権力をもって人々の上を蓋するように覆っていたわけです

キリスト教では人間は原罪を背負った存在とされていますので、個人の自由や権利などは尊重されないわけですね

つまり人間はほっておけば罪を重ねていくだめな奴だっと考えられていたので、罪から救済できる力を持っている教会が、人々を支配していたのです

すると、社会はたいへん窮屈になり、人々は抑圧されてしまいますので、息苦しいわけです

なのでキリスト教が社会を覆う以前の古典にある人々の自由さに憧れますね

それゆえ、ルネッサンスでは古典に触発された人々によって、もっと自由を求めて現れたものだと言えます

そのルネッサンスを決定づけるといいますか、一番の核になったものが、ヘルメス主義だと私は思います

ヘルメス主義については何度も日記に書いてきました

キリスト教の原罪思想や、その母体となったユダヤ教などからは、人間は罪を犯す奴らで、価値の低いものという考え方が導かれてくるわけですが、ヘルメス主義では、人間の本質は神様と同質と考えますので、人間を尊重する思想が出て来ます

ですので、中世ヨーロッパの抑圧てきな教会の支配や思想に対して、人間を尊重する思想をうちに含んだルネッサンスが、ヘルメス主義をもとにして開花したのだと思います

現代の政治でも、人々を抑圧する方向にある社会主義や共産主義があり、一方で人権を尊重して自由を尊重する自由主義、資本主義の対立があるわけですが、中世においても個人としての人間の価値をあまり尊重しない思想(中世キリスト教)と、人間の価値を尊重する思想(ヘルメス主義)があって、対立していたわけです

そのルネッサンスの流れからキリスト教のなかでもプロテスタントなどの新教が発生してきたのでしょう


理念界から人間界にもたらされたもの


人類は新たな理念を取り出して進化していきます

理念界から取り出された概念は人類を新たなステージに進めます

例えばフランス革命がありました、これは権力闘争でしかありませんでしたが、そのスローガンである自由・平等・博愛の理念はその後の人類史の流れをつくり、私達はまさしくその理念のもとの実験施設にあります

自由を求める思想は資本主義に流れ、貧しき者と豊かな者の格差が広がる世界となり

平等を求める思想は共産主義へと流れて、強力な国家権力に押さえ込まれた貧しさの平等のもとにおかれました

自由を求めると格差が広がり、不正がはびこる社会となります

平等を求めるとすべての人を統制するための強力な権力が必要になり、国家が強く国民は抑圧されるようになりました

そのように人は理念界から概念を取り出して、それは人々に共有され新たな社会システムと新たな意識を生みます

社会システムと人類の意識は表裏一体で、意識が変わるのと社会システムが変わるのは繋がっています

この二つを分離してどちらか一方からのみ考える事は片手落ちとなります

ルネサンスで起こった人々の意識の変容は、現代の社会の在り方を形作り、人々を導いてきた姿なきエネルギーとして働きます

それらの根源には神仏の偉大なエネルギーがあって、人々を新たな時代へと導き、育んでいく力を与えてくれます

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1 件のコメント:

ねこにゃんさん さんのコメント...

題:今は、・・「三位一体神」。
.
副題:キリスト教の信仰対象の神は、今は、「三位一体神」。
.
 ヨハネには、「三位一体神」など、頭に、まったく、なかった。
 三位一体神と言ったら、即座に「それ何?」と、返事が返って
くるだろう。
 (「ヨハネの手紙1」2・22)を読んでみて下さい。
 完全に、彼は、2神の考えです。
 「御父と御子」です。
 その文は・・
偽り者とは、イエスが「メシアではない」とイエスを否定する者
ではなく、「御父と御子」の(2神)を否定する者」・・・と、
言っています。
 「この(2神の)御父と御子」を認めない者は、「反キリスト」
です・・・とも言っている。
 完全に、信仰対象のキリスト教の神は、2神です。
 キリスト教の最高の会議である「公会議」でも、
 「御父と御子」の2神が、キリスト教の神だと決定したことと
符合(ふごう)する。
 時代が経っても、なかなか「聖霊」を神としなかったが、
大分、時が経た後、すったもんだの挙句に、
 「異端だお前は」の暴挙・暴言が出る大荒れの中で、
 「聖霊」が、キリスト教の神に加えられた。
 そして、「三位一体神」とされた。
 異端とされた者は去って
             (つづく、後はブログに)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
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