2018年4月6日金曜日

ムー大陸や邪馬台国は沖縄だった!?スピリチュアルに見た沖縄古代文明の話し 琉球幻想奇憚


古代奄美・琉球大島とムー文明


ご要望もありましたので、奄美と沖縄が繋がっていた時代のお話しをします



以下は私が感じたままを書いた物証のない話しです

かつて一万年以上前になるかと思いますが、奄美から沖縄諸島までの島々が繋がった大きな島がありました

九州の南の沖から台湾方面に伸びる、帯状の細長い島です

そうした大きな島で繋がっていた印しとして、奄美諸島にも沖縄諸島にも毒蛇のハブが棲息しています

かつては地続きであったのでハブも広がって棲息していました

そして隆起珊瑚でできたような海抜の低い島には、ハブは住んでいません

これらの低い島は、一度海没したためハブも死滅したからです

かなりの部分が没した後に、揺り戻しのように陸地が少し上がったため、一度海没した島も浮上したのです

琉球大学の木村教授などは、かつての琉球はムーだったと述べています

与那国や北谷沖の海底遺跡が、かつて沖縄に文明の栄えていた証拠として考えたわけですね

ですがムーそのものではなく、ムーからの人が一部住み着いた出先機関のあった地のようです

現代でも先進国がレアメタル等を海外から求めるように、おもに装飾品になる材料を求めて、古代奄美・琉球大島に一部おりました

大きな塀に囲まれた町に住んでいて、元からその地に住む者も外に住んでいます

ムーから来る者は地元の人が気にもとめず捨てていたような珊瑚や貝殻を、食糧と交換してくれるため喜んで交流していました

そしてわずかですが文明の道具なども地元に流れてきます

そうしたかつての記憶が、ニライカナイの信仰へと繋がっているのかもしれません

このように、はじめは来る者も少なく緩やかな交流でした

ですがしばらくしてから、ムーから大きな船団が古代大島にたどり着くことがありました

ムーが大地震により海に没してしまい、そこから一部逃れた者があったようです

そのうちのさらに一部が、この古代奄美琉球大島にたどり着いたようです

ムーからの避難し移住してきた者たちによって、大島は本格的に文明が発展してきました

船を利用した北端の先にある日本列島や、南端から中国南部との交易などもしていました

文明として文字も伝わります

文字と言うと皆さんは紙や壁に書く記号文字しか思い浮かばないかも知れませんが、それとは違った文字というのもありました

それは、紐に瘤をつくって、文字や数字のかわりにするものです

紐にある瘤の数や並びによって意味のある文字として利用していました

紐文字はおもに商人のあいだで使われていた文字です

例えば、店先に瘤のついた紐をぶら下げて、それを見たら何をいくらで売っているか一目でわかります

紐文字はそうした商売や帳簿として利用していたわけですが、現代でも使われている記号文字も政治や宗教では使われていました

身分の高い者はそうした抽象的な文字を読み書きしていたのですが、商売をする人などは紐文字を利用して生活していたのですね

記号文字は一種の神秘的な意味合いがあるように思われていました

今で言えば呪術文字のように、何か霊的な作用のあるものと考えられていたため、そうした宗教者などが使い、一般には利用はされていなかったと言えます

勾玉は現代では神社などで祭られたりしているのかもしれませんが、本来は首飾りでもあり、貨幣にもなるものでした

店先で紐文字を見たら、首飾りの勾玉を外して、その値段分を渡して商品と取り替えたわけです

今のお金に代わるもので、なおかつ装飾にも使われる物であったのですが、それが畏敬されていつしか模倣の勾玉が奉られるようになったのでしょう

また潮満つの玉・潮干るの玉の伝承があります

これは本来は物の重さを変化させられるものでした

例えば巨大な岩を軽くして容易に持ち運びができるようにします

一種の重力を操作できるものであったのでしょう

古代の日本でも巨石文化があったようですが、そうしたものが利用されていたのかもしれません

本来は岩を動かすなど建築に使われていたものですけど、それがいつしか海の波を満ちたり干したりに利用されて、潮満つの玉・潮干るの玉の伝承となったようです

この文明では、霊的な能力のあるものが優れた者とされ、指導的な地位についていました

ですので女性は霊的な能力が男性に比べて比較的に高い方が多いですから、この時代は女性でも指導的な立場につくことが多かったと言えます

いまの奄美や沖縄諸島は、かつてあった大島の標高の高い地域が残ったもので、人々の住んでいた海岸沿いや川沿いの地域は、海底へと没してしまいました

今から一万年ほどまえのことです

与那国や北谷沖の海底遺跡は本当に人工的なものかはわかりませんが、奄美から琉球諸島につらなる海底には、古代の遺跡が遺されているものと思います


古代文明・沖縄の話し 琉球幻想奇憚


先日は「運玉森の物語・青色人」という話しを掲載しました

こちらには続きがあります

南西から戦さの強い赤色人の部族が侵略してきて、青色人の部族に「滅ぼされたくなければ服従しろ」と誓わせ、貢ぎ物を差し出すように迫られます

おとなく争いの嫌いな人の多い青色人たちは、言われた通りにします

すると、調子に乗った赤色人らは、青色人の大切な漁場を我が物顔で荒らしてくるのです
やがては滅ぼされるのではないかと感じた青色人は、戦うべきだという人と、争っても赤色人らには勝てないので、服従を誓って、隷属するしか生き残れないという意見に分かれます

お互いに対立して、結論が出ない状態となり、しかも内部で分裂しているため、ますます赤色人に付け入られる隙をつくってしまいます

そこへニイルピト(二色人)と呼ばれ、青色人と他の部族とのハーフの青年があらわれて、一つの案を授けます

それは文化的に発達した黄色人と同盟し、赤色人の侵略を防ぐという方法です

その案により、青色人は赤色人と争うこともなく、隷属させられることもなくなりました

ざっとストーリーを述べるとこのような感じになります

琉球の古代に上記に似たようなことがあったのではないかと思いました

これはあくまで個人的に感じとったことですが

一万年以上前には、琉球は、与那国から奄美辺りまで含めて、弓形の南北に伸びる、現在よりも大きな島であったのではないか

そこに人々が住み、文化が発展したものがあったのではと感じます

ニイルピト(二色人)は、現在では現れて若者に難問をといかけるとされていますけど、実は古代において外交の難問を解いて、人々から慕われた者が元になっているように思います

青色人というのは、入れ墨をした者たちで、古代の沖縄の今は海没した地域に住む者たちで、沖縄の先祖にあたる人たちだったと思います

以前の沖縄にも入れ墨の文化があり、私の曾祖母には手に入れ墨をしていました

赤色人というのは大陸系の人達ですね

島が隆起していたので、大陸から進んできた者たちです

そして黄色人というのが実はムー大陸と呼ばれる、今はなき大陸に住む者たちであり、古代の沖縄の陸地の北部にも、駐在というか、一部住んでいたように思います

先日斎場御嶽に行ったときに、勾玉が出土したとして飾られていましたけど、実は、そのムーから来た民は、その勾玉を貨幣として使っていたようなのです

勾玉は今では首飾りなどの装飾品としか理解されていませんけど、かつては装飾品でもあり、なおかつ貨幣としての機能も持っていたようです

ですからムーの民は首飾りを見たら、お金持ちかわかったわけですね

何か欲しくなったら首飾りから勾玉を取り出して対価分を渡すということをしていました

そうしたかつてのムーの民との交流が活発となり古代琉球も文化的に栄えた時代がありました

ですが、今から一万年くらい前に、島の陥没があって、一部の高い所を残して、人々は海岸地帯に多く住んでいましたから、海没し現在の沖縄諸島の姿となりました

ですから古代琉球=ムー大陸という説もありますけど、ムーそのものではなくて、ムーの文化が流れてきて、発達した時代があったということではないでしょうか


魏志倭人伝に見る邪馬台国と琉球


魏志倭人伝を読んでみました

これは三国志に出てくる 魏の国から当時の日本を訪れた時の記録で、有名な邪馬台国やヒミコが出てきます

魏の使者が韓国の南端から海を渡ってやってくるのですが、 伊都国に来るまでは、草が背まで繁ってたとか、実際に体験したことを書いていますが、それ以降からは急に無くなってます

伊都国というのは当時の使節が来たときの停留場所であったと書いています

どうやら使者は 伊都国にとどまって、それ以外の国については聴きかじりで書いたものと思われます

伊都国というのは今の福岡県にある糸魚半島のようです

「倭の地を参問するに」と書いてあるように質問して聴いたことを書いているようです

実際に行っていなくて聞き取りで書いたため記述に混乱があり、このために邪馬台国論争といって、何処にあったか長年の論争の元になったのでしょう

では 使者の聴いた邪馬台国とは何処かと言うと、南に水行十 日、陸行一月。とあり、これをそのまま当てはめると九州の南の海上となります

ですから、邪馬台国の研究している人はこれは南じゃなくて東の間違いではないか(畿内説)とか、日数に間違いがあるのではないか(九州説)等が言われています

しかし、その後の記述にあるように「 その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし」と書かれています

上記の地図の東治を見てもらえると、その東の海に沖縄があるのが分かります

これからも場所は、九州の南の海上で、今の沖縄や 奄美大島が当てはまります

ですので、南に水行十 日、陸行一月とは記述の間違いではなく、 作者は今の沖縄あたりにあると考えて書いたのがわかります

しかも風俗として、みんな入れ墨して海に潜って海産物をとっていたと言います

入れ墨の風習は畿内にも、九州にもありません
むしろ罪人に罰として入れ墨していたみたいです

ですので畿内も九州も当てはまりませんが、沖縄には入れ墨の伝統がありました

ちなみに私のひいおばあちゃんまでは、手の甲に入れ墨をしていました

また、温暖な地で冬でも生野菜を食べていたと書かれていますが、畿内では当てはまらないと思われます

九州でも当時は寒冷時期であったと言われるので難しいです。沖縄なら当然当てはまります

「 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり」と言う記述がありますが、これは周囲を海に囲まれた地域ととれます

九州や本州では当てはまらないでしょう。島なら考えられますが、こちらも沖縄や奄美なら当然当てはまります

と言うことで、 作者が考えていた邪馬台国の場所と言うのは、沖縄・ 奄美地方で間違いないでしょう

ですが、沖縄説が有力ではないのは、考古学として考察するに当時沖縄はそれだけさかえていなかった理由によるでしょう

だから邪馬台国は別にあるのだと考え、記述と一致しないことをあれこれ考え悩んでいるわけです

ここでもう一度思い返して頂きたいのは、 使者は実際には邪馬台国には行ってないだろいということですね。聴いて書いているわけで、問答において誤解があった可能性があります

つまり、 使者の聴いた倭の地と、実際に女王のいる邪馬台国は別な地のことを書いていた可能性があります

使者が倭の地はどんなところかと聴いた時に、
使者は女王のいる邪馬台国について聴いたつもりであったのに、答えた人は別な地を想定して答えた可能性もあります

ではなぜ、回答者は今の沖縄辺りの地域を答えたのかですが、幾つか考えられます

1、当時の中国からな日本のことを倭(ワ)と呼んでいたのですが、当時の質問された日本人からしたらワの国とは、沖縄地方のことを指していた

2、邪馬台国の国交の範囲が沖縄まであって、その境の地のことを答えた

3、邪馬台国の民の源流が沖縄・ 奄美にあり、伝承として語りつがれていた地の話しが紛れ込んだ

4、 作者が聞きかじっていた琉球の地を勝手に邪馬台国と一致させて書いた

まあ、いろいろ考えられるわけですが、そもそも 使者が実際には行ってなくて、聞き取って書いたため魏志倭人伝 から邪馬台国の場所を特定するには無理がありそうです

長くなったので続きはまた次回にします


邪馬台国と琉球開闢の女神アマミキョ


前回の続きです

前回は資料にそって分析して書いていますが、今回は主観的に感じたことや思ったことをおもに書いていきます

魏から来た使者は質問者から間違った地理的説明を受けて、沖縄辺りに邪馬台国があるらしいと考えたようでした

ではなぜ答えた人は沖縄辺りの地理を言ったのだろうと考えると、 魏志倭人伝には「 倭の地を参問する」と書いていますが、倭(ワ)とは当時の中国から呼ぶ日本のことですが、沖縄では方言で今でも自分のことを(ワ)と言います

つまり沖縄の人からすると(ワ)の地と言えば、自分の土地と言う意味になります

ですので 作者が聴いた(ワ)の地と言うのは、女王の住む邪馬台国出はなくて、回答者の住む(ワ)の地、つまり回答者が自分のいた沖縄について言ったのではないかと考えられます

回答者の日本人は沖縄から来ていたのではないでしょうか

と言うことは、邪馬台国は幾つかの国の連合国なのですが、当時から遠く沖縄の地とも交流があったものと思います

おそらく南方の沖縄ルートで秘かに魏の敵対国である、呉とも民間レベルでの交易があったのではないかと思います

その経由地でもある沖縄・ 奄美は邪馬台国の交易地でもあったのでしょう

ひょっとしたら呉の人が邪馬台国連合の別な国にいたため、魏の使者の 陳寿は 伊都国に留めていた可能性もあります

もし見つかったら困りますからね

邪馬台国連合と言うのは、交易をなす海洋民族であったのではと思います

国々が共立して女王をたてたわけですが、これらの国は交易などにより繋がっていたのではと思いする

主に島や海岸地帯に住む人々の集まりであったのでしょう

もちろん田畑もありましたが、魚介類を取って暮らし、島に足りないものは交易で手にいれていたわけです

当初は貿易による富の蓄積により力を持っていたのですが、稲作の普及とともに内陸の国の力が強くなり滅ぼされてしまったのではないかとおもいます

稲作では塩害のでる海岸地帯より、川沿いの内陸の方が好都合ですから

魏の使者は邪馬台国の他の人や国について幾らかは見てて、海に潜ったり、入れ墨してたり、市で交易していたのは見ています

ですので、入れ墨しているなどの特徴は沖縄だけでなく、広く邪馬台国の連合国で見られる風習だったのでしょう

邪馬台国の記述が魏に残っていて、そのあと成立した大和朝廷にはそれらしい記述が無いため、邪馬台国は歴史から忽然と消えた存在になっています

邪馬台国はまるでユダヤの失われた十部族のように歴史から姿を隠してしまうのです

邪馬台国の風習として入れ墨している特徴があるので、もし彼らがそのまま残っているなら、その特徴的な姿からすぐわかるでしょう

残りはどうなったか
戦で敗れてみな殺されてしまったのか

そこまでの虐殺はなかったでしょう 一部は大和朝廷に加わり、また一部は逃れたのではないかと思います

ではどこに集団で逃れたのか

彼らは入れ墨という特徴的な姿であるため、九州や本州に逃れたのなら、その地帯に風習が少なくても痕跡として残っているはずです

それが残っている地域とはずはり沖縄です

著者が邪馬台国は沖縄辺りにあると想ったように、沖縄・ 奄美は何らかの縁のある地域であり、侵略された邪馬台国の民の一部は沖縄・奄美へと移り住んだのです

彼らが移り住んだのなら何らかの伝承があるのではと考えられます

当時の人にとっても重大な事件でしょうからね

その伝承こそが琉球開闢の女神アマミキョであると思います

アマミキョの女神さまは、沖縄に稲などの農作物をもたらしてくれたと言います

ちょうど邪馬台国の時代は稲作が九州で普及してきた時期であり、彼らが移り住んだのなら稲などももたらしたでしょいから時期としても一致します

また女性が霊的に優位にありリーダーとして選ばれることも女神であるアマミキョ神に一致しています

彼らは太陽神を信仰していたのでしょう、沖縄でも太陽神の信仰があります

海洋貿易をし、海に潜り、入れ墨する風習は沖縄の特徴としてのこりました

かつて沖縄・ 奄美が栄えていた時代があり、その末裔が邪馬台国の民であり、また彼らは故郷である沖縄・ 奄美に帰ってきたのではないか そんな気がいたします


ムー大陸と沖縄の起源


以前の記事で、沖縄はかつて細長い帯状の陸地であり、ムーの出先機関があったところと書きました

沖縄の起源はムーにあって、そこから日本列島へ文化の伝承があったと考えたわけです

また、魏志倭人伝の記述はかつての沖縄を指しているという指摘もしました

なかには、沖縄の人々の起源として中国からの流れがあったとする人もいます

ですが、中国から流れてきた人々が沖縄の文化の起源であるなら、沖縄の方言に中国の影響があるはずです

例えば南米の国では、スペイン語やポルトガル語が流通している地域がありますが、それはスペインやポルトガルなどがかつて南米の地域を侵略した過去があるからです

ヨーロッパから流れてきた人の数は少なかったでしょうが、支配階級にある人々の文化や言語が強く影響します

もし、沖縄に中国から流れてきた人々が文化の伝承者なら、沖縄方言にはからなず中国語の影響が色濃く残っているはずなんです

ですが、沖縄の方言は古代の日本語と同一のものなのです

沖縄の方言を研究することで、古代の日本語はどのうだったか調べたりされることがあるわけです

では、どれくらい過去に日本語と分かれたかを調べると、一説には二~三世紀ころだったと言われています

ちょうど邪馬台国があったとされる頃ですね

邪馬台国の後に日本についての中国での記述が無くなる空白の時期がくるわけですが、沖縄と日本列島の文化交流が途絶えたと思われる時期と一致します

おそらく、邪馬台国は沖縄奄美と密接な関係にあったのが、戦乱により邪馬台国が滅ぼされた時に、沖縄奄美とも交流が途絶えたということでしょう

邪馬台国の女王卑弥呼には侍女が千人もいたことになっています、これは数が多過ぎるのでいくらか水増しされているかも知れませんが、多数の女性が周りにいまのは事実でしょう

侍女となっていますが、本当は神に仕える巫女であったと思います

こうした巫女が選ばれて邪馬台国にきたわけですが、そこで沖縄奄美の役割があったように思います

たくさんの巫女が沖縄奄美からきていたのではないかと感じられます

あるいは修行場のようなところになっていたのかも知れません

そういうわけで、沖縄は日本の創成期に関わっていたと思われますし、その起源はムーにあったと思います


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5 件のコメント:

  1. 続きのお話ありがとうございます。
    先日の青色人は心優しいけれど文化や科学の発展の方はどうなんだろうと思っていました。
    ムーの人たちが入ってきて、文化の発展に役立ってかつ、平和を保っていけたのですね。
    また斎場御嶽の勾玉のお話、興味深く思っています。

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  2. 大変、興味深いお話です。世界中に伝わる大洪水伝説が約1万2千年前ですから、それより以前は海面の水位が低く、琉球がもっと大きな島だったということは十分あり得ると思います。

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  3. 世界五色人と言われていますが、大和民族は、五色人の中に含まれず金色人と言われていたのは、何故でしょうか?

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  4. 釣り針のニュースを見て、とても驚きました。
    こちらのブログを拝見するようになって、古代の歴史にも興味が湧いてきました。
    邪馬台国の謎についても興味があります。
    機会があれば取り上げて頂ければと思います。

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  5. なんだか、今のおきなわ、日本のおかれている状態と似ているような気がしてしまいます。ムー大陸的な存在がない現在、この先どうなることやら。

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