勝五郎、前世の記憶を語り始める
江戸時代後期、武蔵国多摩郡中野村に住む百姓・源蔵の次男勝五郎(当時8歳)は、文政5年(1822年)の晩秋、姉のふさ(当時14歳)と兄の乙次郎(当時11歳)と一緒に田んぼのほとりで遊んでいました。
ふと勝五郎は兄に向かって尋ねました。
「ねえ、お前はもともとどこの誰の子どもで、どうやってこの家に生まれてきたの?」と、まるで自分たちがどこか別の場所から生まれ変わってきたかのような問いかけでした。
乙次郎はきょとんとして答えました。「そんなこと、知らないよ。」
次に勝五郎は姉のふさにも同じ質問をしました。
ふさは笑いながら「自分がもともとどこの誰の子として生まれてきたかなんて、分かるわけないじゃない。ばかげたこと聞くものね。」とからかいました。
ふさに笑われた勝五郎は、不思議そうな納得できない様子で首をかしげ、「じゃあお前は、生まれる前のことを何も知らないのかい?」と聞き返しました。
ふさが「じゃあ、あんたは知っているっていうの?」と問い返すと、勝五郎はきっぱりと「うん、知ってるよ。俺はよく覚えてるんだ。元は“程窪(ほどくぼ)村”にいた久兵衛(きゅうべえ)って人の息子で、“藤蔵(とうぞう)”って名前だったんだ」と言い出したのです。
姉のふさは面食らって、「まあ変なこと!それをお父さんお母さんに言いつけてやるからね。」と勝五郎を脅しました。
すると勝五郎は突然あわてて泣き出し、「親たちには絶対言わないで!」と懇願しました。
ふさも「それなら言わないけど…ただし、あんたが悪いことをして言うことを聞かない時は、必ずみんなに言いつけるからね。」と言い渡しました。
この日以来、きょうだい喧嘩になるたびにふさが「あのことを言いつけるよ」と言えば、勝五郎はすぐに泣き止み言うことを聞いたといいます。
両親や祖母にも勝五郎の奇妙な言動は察知され、両親がふさに「あの子(勝五郎)は最近どうしたんだ?」と問いただしました。
しかしふさは弟との約束を守り、なかなか話しませんでした。
けれどもあまりに両親が心配するので、ついに観念して今までのやりとりを打ち明けました。
家族による問いただしと前世の詳細
両親の源蔵と妻せい、そして祖母のつゆは、勝五郎の語る内容に驚き半信半疑でしたが、「一体どういうことなのか確かめよう」と決意します。
そこで彼らは勝五郎を落ち着かせ、おだてたりお菓子を与えたりしながら、なるべく優しく「前に話していた“生まれ変わり”ってどういうことか、ちゃんと教えてごらん」と促しました。
勝五郎は恥ずかしがりながらもしぶしぶ話し始めました。
「…本当の(前の)父親は、同じ武蔵国多摩郡の“小宮領程窪村”にいた久兵衛って人なんだ」と勝五郎は言いました。
「母親の名前はおしず。俺がまだ小さいとき(2歳の頃)に本当の父ちゃん(久兵衛)は病気で死んじゃったんだ。
それで母ちゃん(おしず)は未亡人になった後、半四郎って人を後添えに迎えて新しい父ちゃんにした。
その半四郎さんに可愛がられて育てられたけど、俺(藤蔵)は6歳のときに疱瘡(天然痘)で死んだんだ。
それから今のこの家の母ちゃんのお腹に入って、生まれ変わってきた」――。
勝五郎は幼いながらも一生懸命、自分の「前の人生」での出来事を語りました。
しかし聞いている大人たちにとっては、あまりにも不思議で信じがたい内容です。
最初、両親も祖母つゆも「子どもの言う戯言だろう」「とても信じられない」と思い、その場は深く追及せずに終えました。
ところがそれからというもの、夜になると勝五郎は祖母のつゆにまとわりついて「ねえ、お祖母ちゃん、お願いだから程窪の半四郎さんの家に連れて行ってよ。向こう(前世)の父ちゃんと母ちゃんにも会いたいんだ」とせがむようになりました。
当時、勝五郎の実母せいには4歳になる妹(勝五郎にとっては妹)がいて、母はその妹に授乳中だったため、勝五郎は夜は祖母つゆと一緒に寝ていたのです。
祖母つゆは孫の突然の頼みに面食らい、「まあまあ、そんなおかしなこと言わないの」となだめてその場はやりすごしました。
しかし勝五郎はそれから毎晩のように「半四郎さんのところへ行きたい」と繰り返しせがむようになったのです。
さすがに祖母も困り果て、「もしかしたらこれは前世の“半四郎さんの家”に行きたいという気持ちが強くなり過ぎて、思いつめているのかもしれない」と考えました。
しかし祖母は老女の身、「もしそんなことを真に受けて私が子どもを連れて他所の家に行ったりしたら、人から笑われてしまうだろう。やっぱり連れて行くなんてできない…」とも思いました。
祖母つゆは悩んだ末、ある夜こう切り出しました。「そんなに行きたいのなら、生まれてここに来るまでの話をちゃんと一から話してごらん」。
つまり、本当に前世の記憶があるのなら、最初から順に詳しく話してみなさい、と促したのです。
勝五郎は幼い子どもなりに拙い言葉で、自分が「どうやってこちらの家に生まれてきたか」をできる限り詳しく語りました。
そして最後にこう念を押したのです。「でも、この話は、お父さんお母さん以外には絶対しちゃダメだよ。」
勝五郎が何度も何度もそう強く言うので、祖母も神妙な気持ちになりました。
勝五郎は語った内容はこうです。
「前世のことは、四歳くらいまではよく覚えていましたが、だんだん忘れてしまいました。
私は死ぬ運命ではなかったのですが、薬を飲ませてもらえなかったので死んだのです。(疱瘡にかかっていたことは自分では知らず、後になって人から聞いて知りました。死んだのは文化七年二月四日だったそうです。)
息を引き取るときには、何の苦しみもありませんでしたが、その後しばらくは苦しかったです。
その後はまったく苦しいことはありませんでした。
それから、体を桶の中に無理やり押し込められたとき、自分の魂は飛び出して、そばにいました。
山へ葬りに運ばれるときは、白い布で覆われた棺の上に乗って運ばれました。
棺を墓穴に落としたとき、その音が心に響いて、今でもよく覚えています。
お坊さんたちがお経を読んでくれても、何の役にも立たず、彼らはみんなお金をだまし取ることだけが目的の役に立たない人たちだと思えて、嫌でたまらなくなり、家に帰りました。
(「お坊さんは尊い人で、お経や念仏を唱えれば、良い国に生まれると聞いているけれど、地獄や極楽ってどんな国なの?」と聞かれたことがあり、そのせいでお坊さんのことをこう思ったのです。)
机の上に座っていましたが、人に話しかけても誰も気づきませんでした。
そのとき、白髪を長く垂らし、黒い着物を着た老人が「こちらへおいで」と誘ってきて、その人についていきました。
どこか分からない高いきれいな芝生の原っぱに行き、そこで遊びました。
花が咲き誇る場所で遊んでいると、枝を折ろうとしたときに、小さなカラスが出てきて、すごく威嚇され、とても怖かったのを今でも覚えています。(「中野村の産土神は熊野権現だ」と源蔵が言っています。カラスが出てきたということで、何か思い当たることがありました。)
また、こうして遊んでいるときも、自分の家で親たちが話す声やお経を読む声が聞こえましたが、お坊さんのことが嫌いでした。
供え物の食べ物は食べませんでしたが、温かいものは煙の香りが甘く感じられました。
七月に庭で火を焚いたとき家に戻ると、団子などが供えてありました。
こうして遊んでいるうちに、あるときあの老人と一緒に家の向かいの道を通ったとき(家とは源蔵の家のことです)、その家を指さして「この家に入り、生まれなさい」と言われました。
言われた通りに老人と別れ、庭の柿の木の下に立って三日間うかがい、窓の穴から家の中に入り、かまどのそばでさらに三日間いました。
そのとき母がどこか遠くへ行こうと父と話しているのを聞きました。
(父、源蔵はこう証言します「勝五郎が生まれた年の正月のことだった。
ある夜、寝室で夫婦で話し合い、『こんなに貧しい家なのに子どもが二人もいて、老母も養っているから生活が苦しい。
妻には三月から江戸へ奉公に出てもらおう』と決めたことがあった。
しかしその時は老母には話さず、二月になってから老母にも伝え、三月になって妻を奉公に出したが、そのときにはすでに妻が妊娠していたことが分かり、主人に暇をもらって家に帰った。
その妊娠がわかったのはちょうど正月で、十月十日に勝五郎が生まれた。
このことは夫婦以外知るはずがないのに、彼が知っていたのは不思議だ」と言っています。
また「妊娠中も、生まれるときも、その後も特に不思議なことはなかった」とも証言しました。)
その後、母のお腹の中に入ったように思いますが、はっきりとは覚えていません。
母のお腹の中で母が苦しんでいるように感じたときは、横にずれていました。
生まれるときも何の苦しみもありませんでした。(程窪村で藤蔵として文化七年に死んでから、六年後のことです。)
そのほか、いろいろなことも、四歳五歳になるまではよく覚えていましたが、だんだん忘れていきました。」と語りました。
前世の家族との接触と確認
勝五郎の家族はこの話を内々に村の名主や役人にも相談しました。
当然ながら村の大人たちも驚き半信半疑でしたが、「もし事実なら大変なことだ」と噂はすぐに近隣に広まり始めました。
文政6年(1823年)正月7日頃、程窪村から一人の年配の男性が中野村の勝五郎の家を訪ねてきました。
彼は「私は程窪の半四郎さんと親しい者です」と名乗り、こう言いました。
「実は、程窪村でこんな噂を耳にしましてな…『中野村に生まれた子が、かつて程窪村にいた久兵衛さんという人の息子・藤蔵の生まれ変わりだ』と人づてに聞いたのです。あまりに話が合致していて不思議なので、ぜひ確かめたいと思い、まずは私が様子を伺いにまいりました」。
勝五郎の両親と祖母は、この老人に対し、知っている限りの事情を語りました。
老人は「なるほど…」と何度もうなずき、互いに「奇妙なこともあるものだ」と驚き合いました。そして老人は一旦程窪村へ戻っていきました。
こうして噂はいよいよ広まり、村の内外の多くの人が「生まれ変わりの子供がいるらしい」と聞きつけて、わざわざ勝五郎を見物に来るようになりました。
家の外に出れば物珍しそうに人だかりがし、「程窪小僧」などとあだ名を付けて囃し立てる子供まで出てきました。
勝五郎は恥ずかしがって、そうした騒ぎになってからは外に出歩かなくなってしまいました。
勝五郎は両親に対して怒りました。「だからあれほど“ほかの人には話すな”って言ったのに!」。
自分が秘密にしてほしいと言った話を親が人に漏らしたため、こんな大騒ぎになったと思い、両親を恨んで悔しがったそうです。
一方、勝五郎の「半四郎さんの家(前世の家)へ行きたい」という願いはますます強くなっていきました。
そしてついにある時期から、毎晩のように理由もなく泣きじゃくるようになったのです。
朝になって家族が「どうしたの?」と尋ねても、勝五郎自身「分からない」と言います。
ただ毎晩涙を流すようになったので、祖母つゆは心配し、「これはきっと、例の“半四郎さんのところへ行きたい”という思いが募って心を悩ませているんだろう」と考えました。
祖母は「たとえ話が間違いだったとしても、この子が男の子だったら一人で行かせることもできるけど、私は年老いた女だし、一緒に連れていけば人に笑われるかもしれない。どうしよう…」と悩んでいました。
そこへ父の源蔵も「確かにこのままでは勝五郎が可哀想だ。いっそ行くだけ行ってみようか」と決断します。
こうして家族はついに勝五郎を前世の家(半四郎の家)へ連れて行くことを決めました。
文政6年正月20日のことでした。
祖母つゆが勝五郎を連れて、中野村から程窪村へ向かったのです(中野村と程窪村は山ひとつ隔てて距離にして約一里半〈6キロ弱〉ほど離れています)。
祖母は道中、「本当にそんな家があるのかしら」と半信半疑でしたが、勝五郎は道案内をするかのように先に立ち、「まだ先だよ。もっと先」とどんどん歩いて行きました。
そして村に入ってしばらくすると、ある一軒の前で「この家だよ!」と叫び、祖母より先にスタスタと玄関へ駆け込んでいったのです。驚いた祖母も慌ててその家に入りました。
(ちなみに出発前、勝五郎は祖母につゆにこう説明していました。「程窪の半四郎さんの家は、三軒の家が並んだ中で少し奥まった家で、裏口が山につながっている家だよ」。そして実際に行ってみると、その言葉通りの家だったのです。)
家に入った祖母は、まずその家の主に「お名前をお聞かせ願えますか」と尋ねました。
出てきた男性は「半四郎です」と答え、さらに「奥さんのお名前は?」と聞くと「おしずです」と答えました。
その言葉を聞いた瞬間、祖母の胸は高鳴りました。勝五郎が語った「前世の両親は半四郎とおしず」という名前と完全に一致したからです。
実は、半四郎夫妻の側でも、すでに人づてに「中野村に不思議な子供がいる」という噂を聞いていました。
しかしまさか本当に…という思いもあり、こうして祖母つゆから直接話を聞いて、半四郎夫婦は驚きと不思議さと、そしてかつて幼くして亡くした子への思いから、二人とも涙にくれました。
半四郎は勝五郎を抱き上げ、まじまじと顔を見つめて言いました。「亡くなった藤蔵が六つのときの顔つきによく似ている…」。
おしずも泣きながら、何度も何度も勝五郎に話しかけました。
ちょうどその時、勝五郎は半四郎に抱えられながら家の外を指差して言いました。「あの向かいの煙草屋の屋根、前はあんなふうになかったよ。あの木も前は生えてなかった」。
皆で確認すると、確かに藤蔵が死んでからこの十数年の間に建て替わった屋根や新しく植わった木だったので、一同ますます驚きました。
そのうち半四郎の親族の年配者たちも集まってきました。
中には久兵衛(藤蔵の実父)の妹にあたるお婆さんもいて、勝五郎の顔を見るなり「まあ、久兵衛にもそっくりだよ…」と号泣しました。
その日はひとまず祖母つゆと勝五郎は中野村へ帰りました。
しかしその後も勝五郎は「あちら(前世)の久兵衛父ちゃんのお墓参りがしたい」としきりに訴えました。
勝五郎の父・源蔵は「今は忙しいから、そのうち時間があるときにな」と適当に言って日を延ばしていましたが、ついに正月27日、半四郎自身が中野村の源蔵の元を訪ねてきました。
半四郎は「源蔵さんともっと親しくお付き合いしたい」という体裁で挨拶に来たのですが、勝五郎にも会うと「勝五郎、また程窪に遊びにおいで」と誘いました。
勝五郎は「久兵衛父ちゃんのお墓参りがしたい!」と大喜びです。
そこで半四郎に伴われて勝五郎は程窪村へ赴き、無事にお墓参りをすることができました。夕方には源蔵の家へ送り届けられました。
その後、勝五郎は父・源蔵に「どうかこれからも、ときどき半四郎さんの家に連れて行って、向こうの家とも親類付き合いをしてください」とお願いしました。
源蔵も「暇ができたらそうしよう」と約束しました。
しかしちょうどその頃、この不思議な噂を聞きつけた土地の地頭役人から源蔵が呼び出されることになったのです。
源蔵は「実は…」と一部始終を役人に報告しました。
こうして、勝五郎の「生まれ変わり」の話はついに村の内外だけでなく、お上(おかみ)の耳にも入るところとなりました。
地頭はこの事態を幕府に報告すべく、御書院番頭の佐藤美濃守という江戸の役職者へ届け出ることにしました。
そして文政6年4月19日付けで、次のような報告書が江戸に提出されたのです。
報告書(要約):
武蔵国多摩郡中野村 百姓・源蔵の倅(せがれ)勝五郎(昨年まで数え8歳)が、昨年秋頃から姉に対し「自分は前世で生まれ変わってきたのだ」という趣旨の話をし始めました。
当初は子どもの与太話として相手にしませんでしたが、あまりに何度もそういう話をするので不思議に思った姉が両親に伝えました。
そこで昨年12月頃、改めて父の源蔵が勝五郎に問いただしたところ、勝五郎は次のように答えました――「前世の父親は、同じ郡の程窪村の百姓・久兵衛という人で、自分(前世の名前)はその息子の藤蔵だ。自分が2歳の時に父・久兵衛は病死したので、母(おしず)は再婚して半四郎という人が新しい父となった。藤蔵(自分)は6歳の時に疱瘡で死んだ。そしてその後、今の源蔵さんの所に生まれ変わった」――。
あまりにも詳しくはっきりした内容なので不審に思い、村役人にも相談の上、慎重に吟味しました。
するとこの噂は世間にも広まり、程窪村の半四郎の耳にも達しました。
半四郎本人が中野村の源蔵宅を訪ねてきたので、さらに詳しく照会したところ、小児(=勝五郎)の話した通り相違ありませんでした。
前世の父母の顔つきや住居の様子なども小児は語りました。
そこで実際に小児を半四郎の家へ連れて行って対面させたところ、これも少しの違いもなく符合しました。
家の者たちは「先年六歳で病死した藤蔵によく似ている」と申しております。
その後、本年春まで度々懇意に付き合っており、近隣にも評判が知れ渡っています。最近では毎日のように物見高い人々が四方から勝五郎を見物に訪れる騒ぎになっており、領内からも訴えが出ている状況です。
つきましては、地頭の配慮により源蔵と勝五郎を召し出して事実を問いただしたところ、二人とも右の通り証言いたしました。
世間で噂になっているとはいえ、表沙汰に扱うには取り扱いが難しい事柄でございますので、まずは内々にこの件ご報告申し上げます…。以上。」
このように、勝五郎の転生事件は当時の公的記録として江戸幕府の役人にも届けられたのです。また、その際に調べられた前世の藤蔵に関する詳細も記録されています。
それによれば:
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藤蔵(前世の勝五郎)は文化2年(1805年)に生まれ、文化7年(1810年)2月に疱瘡を患って四日目の昼下がりに亡くなりました(満6歳没)。
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藤蔵の遺体は程窪村内の山に葬られ、菩提寺は近隣の三沢村にある禅宗のお寺(医王寺)でした。昨年(文政5年)は藤蔵の十三回忌にあたっていました。
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藤蔵の実父…藤五郎(若い頃の名を久兵衛と言い、藤蔵が2歳の時、48歳で病死)
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藤蔵の母…しづ(現在49歳、夫を亡くした後、半四郎を後夫として家を継いだ)
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藤蔵の継父…半四郎(現在50歳)
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藤蔵の異父弟妹…男子2人、女子2人(いずれも半四郎とおしずの間の子)
以上のことからも、勝五郎の語った前世の状況が事実と合致していることが分かります。
この公式の届出によって、勝五郎の転生話は単なる村噂ではなく、公の知るところとなりました。
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