2021年9月22日水曜日

仕事と幸福


先日はスイスの思想家カール・ヒルティの『幸福論』について少し触れ、仕事と幸福について書きました


人生のうちで多くの時間を人は仕事をしていますので、仕事と幸福とはとても関係の深いものです

そこで、今日は少し『幸福論』の中から仕事について紹介して話してみたいと思います

まず初めに述べておきたいのは、仕事とは、たんに会社に勤めるとか、自営業で働くだけでなく、主婦の方が家事をしたり、育児をする事も含まれると思います

男性の問題だけでなく、専業主婦の方についても、他人事ではなく、あてはまるものです

ヒルティは『幸福論』の始めの章「仕事をするこつ」において、仕事と幸福について書いています

ヒルティは「およそ考えうるかぎりの最大の不幸は、仕事の無い生活であり…」と述べています

仕事に追われている現代人からすると、仕事をせずに暮らす生活こそ幸福のように考えてしまいます

宝くじで当たったり、不労所得で生活出来るようになり、遊んで暮らせるのが幸せのように想像した事があるのではないでしょうか

辛い仕事をする必要もなく、毎日遊んで暮らせたら楽だと思う事もあります

ですがヒルティに言わせると、それは最大の不幸とまで述べています

その理由は、先に紹介した分の続いて書いており、それは「…生涯の終わりに、その実りを見る事のない生活である」と続いています

生涯の終わりに、自分の人生が実りをもたらすものでなかったと感じる事、それはつまり、「はたして自分の人生は価値があったのか?意味があったのか?」と問うてしまうような生活でしょう

同様な話を、以前に人が死を目前にして考える事として記事に書いた事があります
これは救命士として働く方が、死を前にした人が共通して問いかけるものについて紹介したものです

ひとつには許しを求めるものであり、二つ目は自分の事を忘れないで欲しいという願いです

そして三つ目には「自分の人生には意味があったのか?」と多くの人が問うのだと言います

はたして自分の人生に意味があったと自信をもって言えるのか?

それは幸福と大きくかかわっています

たしかに仕事をせずに遊んで暮らすのは、はじめのうちは楽しいでしょう

ですが遊びには実りが普通は得られないものです

あとには虚しさだけが残る事があります

何も生産せず、人のお役に立たず、成すものもなく死んでいくとすれば、その人は大きな悔いが残るのではないでしょうか?

人間は死んだら終わりではなく、魂は肉体を離れても存続し続けます

この地球に肉体を持って生まれてくる事は、それだけ覚悟を決めて私たちは生まれてきており、それが死に面して何も実りのない生き方をしたのなら、死後にも大きな後悔を残すでしょう

もっとああしていればよかった、こうしていればよかったと、多くの後悔を残すと思います

その中でも、もっと実りのある仕事、それはつまり多くの役立つ仕事を残したかったと悔いが残るでしょう

関連記事




3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私がなるほど、と思ったのは
かつてあった文明の話ですが、その文明では芸術家や小説家の地位が高く、彼等は生活が保障されているような状態に長くあったそうです。
しかし小説家も芸術家も保障された生活の中で何も生み出せず、彼等は堕落していき、その文明は滅亡への道を辿りました。
つまり仕事の厳しさ、人生の苦しみ、そういう「負荷」がないと優れた芸術作品は生まれてこない、ということでした。
これは絵や文章、音楽など何かしらの表現分野に造詣のある人なら、よく理解できることではないでしょうか^^
「今日からあなたは何もしなくても生活できるし、子育てや家事なんかの義務もありませんよ。好き勝手に芸術活動してください」と言われたら、過去の積み立てでしばらくは作れるかもしれませんが、そんな生活が続けばいずれアイディアは枯渇していくでしょうね。

ここでいう「芸術」は「魂」にそのまま置き換えられると思います。
仕事という「負荷」があること、苦しみという「負荷」があること。
それらを乗り越えていくことで魂は揺さぶられ、実っていくのでしょうね。

匿名 さんのコメント...

うーん…神様は、うまくこの世を作られたもんだなぁ…浮世は、辛く、身を削る念いで生きて、西方浄土(極楽)を、古今より求めるのだけれども、(以下にイスラム教での極楽を記したが、)本当に、このような極楽では、どう考えても、「後は堕落するしか無い」ですね…もう1度、考え直そう。

…イスラム的に言えば、「天国には四条の川があり、それぞれにブドウ酒、牛乳、蜂蜜、淡水が流れている。
 永遠の少年たちが高坏や水差しのワインを持って周り、それは二日酔いにならず、泥酔することもない。
 果実は手を伸ばさなくても取り放題。
 大きなかわいい目をした女たちはまるで真珠のよう。この女は天国に来た人が過去に行ったことへの報奨である。
 バナナがたくさんあって、木陰が長く伸びていて、フルーツがいっぱいあって、カウチが高い場所にあって、本当に私たちは女たちを特別に創って、処女にしてある(=永遠に処女とセックスができる)。

 イスラム教では、天国に行くのは霊魂でなく、生身の人間であるため、ジハード(自爆テロ)で殉職した者は、自身が天国に行けることになっている。」

>http://lib.yg.kobe-wu.ac.jp/exhibition24.html

匿名 さんのコメント...

イスラム教の天国のお話読みました。
天上界にはそのような次元もあるようですよ。(「永遠に処女とセックスができる」はいささか違う気もしますが^^;)
自分の思うがままに姿を変えられたり、水や飲み物を現したり、そんなことをしている魂もあるようです。
ただそれもいつまでもやっているわけではなくて、更に上の天上界を目指していきます。
やはり利他の想いがないと天国以上の天上界にはいられません。
なのでその力を他者のためにどう活かしていくか、という段階にいきます。

「永遠に処女とセックスができる」は通じるのは色情地獄ではないでしょうか。
きっとどこかで間違った教えが入ってしまったのでしょうかね。

今後のコメントは X(旧Twitter)にてお待ちしております。