あなたは今、自分のことを「不幸な側の人間」だと感じていらっしゃるでしょうか。
もしそうだとしたら、その感覚そのものが、ひとつの錯覚かもしれません。
私たちは、自分が今どれほど多くのものを与えられているかに気づかないまま、まだ持っていない一握りのものに心を奪われがちです。
そして欠けている部分にだけ照明を当てて、自分の人生を「不幸」と呼んでしまうのです。
この記事では、ロシアの文豪ドストエフスキーの一言を手がかりに、不幸感の正体と、そこからそっと抜け出していく道筋を一緒に見ていきます。
人は不平不満を語りたがる生き物
私たちはふだんから、さまざまな不平不満を口にしながら生きています。
あの上司が理不尽だ、給料が安い、家族が分かってくれない、自分の人生はうまくいかない。
愚痴の種は尽きませんし、それを言葉にすること自体が、一時的なガス抜きになっていることも事実です。
けれども、不平不満を語り続ける人ほど、自分がどんな環境に支えられているのかが見えなくなっていきます。
たとえば「うちは貧しくて、欲しいおもちゃも買ってもらえなかった。よその子がうらやましかった」と振り返る方もいらっしゃるでしょう。
その悲しみ自体は、決して軽んじてよいものではありません。
子どもの心にとって、自分だけが何かを持てない状況は、十分に大きな痛みです。
ただ、視点を世界に広げたとき、その「貧しさ」がどんな顔をしているかは、地域によってまるで違って見えてきます。
世界の片隅で起きている、もうひとつの現実
ある国では、家族が今日の食事にすら困り、子どもを病院に連れていって検査だと偽り、臓器を売ってしまうケースがあります。
裕福な国の患者の移植用に、子どもの体の一部が売られていく。
そのお金で、残された家族がやっと食いつないでいるのです。
別の地域では、配給される食料に人々が群がっているところを狙って、銃撃が行われる場所もあります。
命がけで食べ物を取りに行かなければ、生き延びることすらできない日常が、確かに存在しています。
あるいは、巨大なゴミの山の近くに住み、廃棄物の中から売れる金属やプラスチックを拾い集めて生計を立てている子どもたちもいます。
「貧しい」という言葉の意味の重さ
ゴミの山には、有害な化学物質や鋭利な金属片が混じっています。
幼い体に病気が忍び寄りやすく、病気になっても病院に行く費用はありません。
ただ何もできないまま、小さな命が静かに失われていきます。
そうした地域に生きる子どもたちから見れば、日本の「貧しい家庭」と呼ばれる暮らしさえ、まぶしいほど豊かに映るはずです。
日本で貧しいと言われる暮らしの多くにも、住む家があり、着替える服があり、最低限飢えないだけの食べ物があります。
水道をひねれば飲み水が出てきて、公教育が無料で受けられて、夜には明かりがつきます。
それがどれほど稀有な祝福であるかは、その中にいると、なかなか実感できません。
比較が幸福感を奪っていく
人間という生き物は、絶対的な状況ではなく、身近な誰かとの相対的な比較で自分を測ろうとします。
近所の家のほうが大きい、同僚のほうが年収が高い、SNSのあの人のほうが充実して見える。
そういう比較の中で、自分の現在地を「足りない側」に置いてしまうのです。
日本という国は、戦後の数十年で大きく経済発展しました。
かつて多くの国民が抱えていた絶対的な貧困は、平均としては大きく減りました。
ところが、社会全体の平均が上がったために、「貧しい」と感じるハードルもいっしょに上がってしまったのです。
みんなが軽自動車を持つようになれば、軽自動車を持っていないことが不幸の理由になります。
みんながスマートフォンを持てば、機種が古いことが不幸の理由になります。
こうして、客観的には豊かになっているはずなのに、主観的な不幸感だけが膨らんでいくのです。
霊的に見たときの「比較」の正体
霊的な視点から見ると、比較というのは、自分の魂の道を他者の地図で測ろうとする行為です。
あなたの魂が今世で歩むべき道は、隣の人の道とはまったく違う形をしています。
それにもかかわらず、他者の風景と自分の風景を並べて優劣をつけようとすると、心は必ず痩せていきます。
そして、足元にある豊かさが、目に入らなくなっていくのです。
ドストエフスキーの一言が照らすもの
ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーは、こんな言葉を残しています。
「人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ」。
ドストエフスキーといえば、『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』など、人間の魂の深層を描き切った作品で知られる作家です。
彼自身、若くして死刑判決を受け、刑場で最後の祈りを捧げる直前に減刑された経験を持っています。
シベリアでの流刑生活も含めて、その人生は決して順風満帆とは言えないものでした。
そんな彼が静かに残したこの一言は、軽い励ましの言葉ではありません。
幸福というものは、外側の条件が完全にそろったときに初めて訪れるご褒美ではない。
すでに今ここにある幸福に気づけるかどうか、そこに人間の不幸と幸福の分かれ目がある。
その真実を、極限の体験をくぐり抜けた人だからこそ書ける重みで、私たちに手渡してくれているのです。
今ある幸福に気づいていく日々の習慣
では、どうすれば「自分が幸福であることを知る」ことができるのでしょうか。
大それた修行は必要ありません。
日常の小さな場面で、視線をほんの少しずらしていく練習から始めていけます。
朝、目が覚めたときに、自分の呼吸がちゃんと続いていることに気づく。
蛇口をひねれば温かいお湯が出て、顔を洗えることに気づく。
食事のときに、自分の口の中にちゃんと味覚があることに気づく。
家族や同僚と言葉を交わせる関係があることに気づく。
こうした「当たり前」をひとつずつ拾い直していくと、不幸を感じる回路と、幸福を感じる回路の力関係が、少しずつ入れ替わっていきます。
不満を感じたときには、ドストエフスキーのあの言葉を、心の中でそっと反芻してみてください。
そして、今あなたが置かれている環境が、世界全体の中でどれほど稀有な祝福なのかを、もう一度感じ直してみるのです。
そのささやかな視点の転換が、不幸の罠から抜け出す扉になります。
夜寝る前のひとつだけの「ありがたい」
もし習慣として何かを始めたいなら、夜寝る前に、その日にあった「ありがたかったこと」をひとつだけ思い出してみてください。
大きな出来事である必要はありません。
誰かが扉を押さえてくれた、コーヒーが思いのほかおいしかった、雨に濡れずに帰れた。
そんな小さなことでかまわないのです。
毎晩ひとつずつ拾い続けていくと、三ヶ月後には自分の中に九十個の祝福が積み上がります。
その積み重ねは、外側の状況が大きく変わらなくても、内側の風景を確実に変えていきます。
あなたの中には、もう十分に幸福が蓄えられています。
あとはそれに気づいていくだけの旅が、これから静かに始まっていきます。
その歩みを、私はあなたとともに見守っていきたいと願っています。
今ある幸福に気づいていく道筋は、幸福完全ガイドの章をたどると一本の流れで見えてきます。
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