「君がなんとなく生きた今日は、昨日死んでいった人達が、どうしても生きたかった大切な明日だ」。アメリカ原住民に伝わる言葉だそうです。はじめてこの一文に出会ったとき、胸の奥がぎゅっとつかまれるような感覚がありました。なんとなく過ぎていく一日。たいして特別なこともなく、気づけば夜になっている、そんな今日という日のことを言われている気がしたのです。
私たちは、一日をそう大切なものとして扱わないことがあります。朝起きて、仕事や家事をこなして、スマートフォンを眺めているうちに眠くなる。そんな一日を、何度も何度も繰り返している。けれど、その一日を心から望んでいた人が、確かにいたのですね。昨日まで生きていて、今日を迎えられなかった誰かにとって、私たちの今日は、その人がどうしても手に入れたかった明日です。
なんとなく過ぎる一日の重み
たとえば、朝のコーヒーをひとくち飲んだとき、窓から日の光が差し込んでいたとします。多くの場合、私たちはそれをただの風景として通り過ぎます。けれど、病院のベッドでもう一度あの光を浴びたいと願いながら、それがかなわなかった人がいる。その人にとっては、コーヒーの湯気も、まぶしい朝の光も、心から欲しかった宝物でした。
私はこの言葉を知ってから、なんでもない場面に小さく立ち止まるようになりました。子どもが学校から帰ってきて玄関で靴を脱ぐ音。夕食のときに家族が交わすたわいない会話。雨の日に傘を打つ音。どれも特別ではありません。けれど、誰かがどうしても生きたかった明日とは、こういう普通の風景の集まりなのだと思うのです。
過去を悔やむ気持ちと、今日という日
私たちは過去を振り返って、よく悔やみます。あのとき、ああすればよかった。十年前にもっと頑張っていれば。二十年前にこちらを選んでいれば。そういう思いは、誰の胸の中にもあるものでしょう。私自身、過ぎた選択をやり直したいと思う夜が、何度もありました。
けれど、ここで少し向きを変えてみたいのです。十年後の自分は、今日という日をどう見ているでしょうか。きっと、いまの私が十年前を惜しむのと同じように、未来の私は今日を惜しむのです。あのとき、もっとあの人と話しておけばよかった。あの一日を、もっと味わっておけばよかった。そう感じる日が、必ず来ます。
つまり今日という日は、過去から見れば取り戻せない過去であり、未来から見ればやり直したい一日でもある。亡くなった誰かが生きたかった明日であり、十年後の自分が手を伸ばす一日でもあるのです。私たちはいつも、そういう貴重な日のただ中に立っています。後悔とは、その貴重さに後から気づくことなのかもしれません。
今日を生かされているという感謝
霊的な視点から見れば、肉体を持ってこの世界で一日を過ごせること自体が、当たり前ではありません。私たちはこの世に生まれ、限られた時間のなかで学び、人と出会い、心を磨いていく。その学びの場である一日を、いま確かに与えられている。これは、感謝という言葉でしか受け止めようのない出来事だと私は感じます。
大切なのは、立派なことを成し遂げることではありません。今日を、ていねいに生きること。目の前の人にやさしい言葉をかけること。小さな仕事をおろそかにしないこと。空を一度見上げること。そういう一つひとつが、誰かの生きたかった明日への、いちばん誠実な向き合い方なのだと思います。今日を大切に生きる。それだけで、私たちは十分に生きているのです。
今日からできること
一つ、朝起きたら、今日が誰かの生きたかった明日だと思い出す。布団から出る前に一呼吸して、この一日を与えられたことに心の中で感謝してみてください。
一つ、なんでもない風景に一度立ち止まる。朝の光、料理の湯気、雨の音。通り過ぎてしまう景色を、今日は意識して味わってみましょう。
一つ、過去を悔やみそうになったら、未来の自分を思い浮かべる。十年後の私が今日をうらやむなら、いまこの瞬間にできることが必ずあります。
一つ、目の前の人にやさしい言葉をかける。大きなことでなくて構いません。ありがとう、おつかれさま。その一言が、今日という日を温かくします。
一つ、夜眠る前に、今日できたことを一つ思い出す。うまくいかなかった一日でも、何か一つは大切にできたはずです。それを胸に、おだやかに眠りましょう。
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