昨日は置かれた環境で忍耐することと、新らたな環境にチャレンジする話をしました
人はどちらかに揺れる傾向があって、両極端にブレるとそれが不幸の原因ともなります
今日はそれとも繋がるお釈迦様のお話を紹介いたします
お釈迦様が王宮を出て修行していたときの事です
まだ大悟される前に、厳しい肉体修行に打ち込まれていました
そのため骨と皮だけのような姿になりながら、沐浴しようと川に行かれます
するとあまりに痩せていたため、流されそうになりました
そこへ村娘が歌いながらきました
「楽器の弦は強く引けば切れてしまい、緩んでいると音が鳴らない、中ほどにしてちょうどよい」
そのような内容の歌だったと言います
お釈迦様はハッとして一つの悟りを得ます
「厳しい修行によって骨と皮だけになった自分の今の姿は、弦を強く引きすぎたように、今にも切れてしまいそうな状態だ
また、王宮にいた頃のような、贅沢な暮らしの中では、緩んだ弦のように、音が鳴らない
正しい道は、これらの両極端の生活には無くて、中道にこそあるのだ」っと悟られました
それから村娘に乳粥を布施してもらい、肉体を養われながら、中道のなかで瞑想行をして、やがて大悟され仏陀となりました
この中道というのは極端な思いや生活から離れて、正しい道を歩むための指標となります
昨日の話しを振り返ると、忍耐強くあることはよいですが、ずっとその場所に固執して、執着してるとそれが苦しみのもとになってしまいます
海のタコを獲るのに壺を沈めてそれを引き上げる漁法があります
タコは狭い隙間が好きなので、壺の中に好んで入っていきます
すると漁師は設置してあった壺を引き上げるわけですが、タコは必至で壺からはがされないように吸盤で吸い付きます
もしタコが異変に気付いて壺から飛び出せれば助かったのですが、逆に壺に執着して離れないため、漁師の手に落ちるのです
そのように人もその場に固執しすぎるがために不幸を選んでしまうことがあるのです
忍耐も大切ですが、新たな環境へと飛び出す勇気も必要です
また、逆のパターンとして、何でもかんでもすぐに飽きてしまい、長続きできない人がいます
職業でも一つの職場に長く続けることが出来ずに、職を転々とする生活を送る人がいるでしょう
そうした生活をしていると、はじめはよいとしても、段々と厳しい生活に落ちいってしまいます
若い頃はよくても、年を取ってくると仕事先もなかなか見つからず、いただける給料も安い仕事しか見つからなくなってくるようになります
そうした人は、一か所でやり抜く忍耐が不足しているといえます
このように、どちらかに比重がかかってしまうと、どちらも不幸に陥てしまうことになります
先日紹介しましたエピクテトスも、ストア派というストイックの語源ともなった哲学派に属しています
ストア派は破壊的な衝動に打ち勝つために、自制心や忍耐力を鍛えることを説いています
それは良いことですが、あまりに極端に行ってしまい、不幸を求めたり、苦しい環境を脱することが出来なかったり、自らを痛めつけるような苦行のようなものまで行ってしまうとブレすぎてしまうでしょう
エピクテトスと反対ともいえる哲学に、エピクロスという人物がいます
名前が似ているのでややこしいですが、エピクロスは快楽を求めることを主張した人です
後に快楽主義者をエピキュリアンと呼ぶようになったのも、彼の名前から来ています
自分の快だけを求める生き方には、忍耐も無くなり、堕落する人が出てきます
仕事は嫌だから必要最小限にとどめて、あとはゲームをしたりパチンコや競輪競馬などに熱を出す人がいます
そうした人も自らの快楽に忠実で、快を求める生き方をしていると言えますが、後には苦しみが追ってきます
お釈迦様は苦行も快楽もどちらにも悟りの因は無く、中道にこそ涅槃の悟りの境地に達せられると説きます
これは不苦不楽の中道とも呼ばれるものです
涅槃とは難しい説明になることもありますが、私流に簡単に説明しますと、お釈迦様が望まれた安らぎのある幸せな境地ということです
苦も楽も、どちらも極端に行ってしまっては、本当の幸せは得られないのだとお説きになられたのです
両極端にブレてしまうと、人は不幸に陥ってしまいます
自身を客観的に見つめて、どちらかに片寄っていないかを見直すと、不幸の落とし穴に陥らずにすみます
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