2018年4月20日金曜日

スピリチュアルメッセージ集 悩みの時悲しい時にはここ”愛”へ戻り癒されてください


小さな花たちへ



野辺に咲く名も知らぬ花のように誰に気づかれなくとも一生懸命に養分を吸い光合成をして成長し立派な花を咲かせてください



花はたとえ気づかれずとも人々のつかの間の癒しとなるように綺麗に生き生きています

無償の奉仕の心で生きているのです

人の気づかぬところを見てくださる天の父は褒めてくださいます

どうして人は不平不満をもらしたり、怨んだり憎しむのでしょう

それは見返りを求める心があるからではないでしょうか

「私はこれだけのことをしてあげた
なのに何もしてくれない」

そうした思いからくるのでしょう

ですが、天の父は貴方がたを養うために空には太陽をかかげ豊かな水と新鮮な空気を、地には食物となるたくさんの植物や動物たちをはなっておりますが、いったいどれだけの人がお礼をし感謝を捧げていますか

一度といえども天の父は貴方に見返りを求めたことはないはずです

貴方の家のポストに太陽の使用料の請求書が届いたことはありますか

ですから父の子である私たちは父に見習い見返りを求めないようにしなくてはいけません

欲張らずに
満ちた者は足らざる者に分け与えなさい

それはこの世のものばかりでなく霊性をも意味します

霊的な学びの深まった者は、内から溢れる思いによって他の兄弟たちを満たしてあげてください

貴方のうちには命の井戸があり、深く掘り起こした者はより多くを兄弟に分け与えることができるのです

ですから、愛深き者となるためにはより深く心の井戸を掘り進めなさい

その井戸はいくら分け与えても涸れることなく、命の水にて満ちあふれます

あるいは、小さな花の種にたとえられましょうか

一人一人の内に天の父の蒔かれた小さな花の種は、栄養を受けて育まれます

その土地に毒をまき続ければ芽は萎みます

豊かな栄養を与え、水をまき、太陽の光を受ければ、種は芽を出し、やがて綺麗な花を咲かせます

毒とは怒りであり、嫉妬、疑い、憎しみ、憎悪、、恐怖、満たされぬ欲望です

そして土地の栄養とは愛であり、奉仕と感謝と謙虚さと、天の父を敬う思いです

水とは家族やまわりの人々からの愛情であり、太陽の光とは天の父からの慈悲にほかなりません

ですから自らによき栄養を取り入れて、毒をまかずに、隣人には水を分け与えましょう


もっとも大切な栄養素”愛”



もっとも大切な栄養素は愛です

愛に満たされないと花はしぼんでいきます

愛に満ちた者となるためには、愛に気づく

足らざるを数えるのではなく、多く与えられていることに気づき感謝していくことです

すでに与えられていることに気づき感謝する思いから愛は生まれてきます

それに気づかない者は受け取るのを自ら拒否しているのです

たくさんの愛に満たされていることに気づく者にはさらに多くを与えられ、満たさぬ思いで人から奪うことを考える者はさらに失うでしょう

それが持てる者にはさらに与えられ足らざる者はさらに奪われるという言葉の意味です


天の父の愛される花たち



あなたは人目につく艶やかで綺麗な華々が好きでしょう
そうして人々から注目され目立つ花となりたいと望むかもしれません

ですがそれらはすでに人からの報いを受けています

森羅万象を見落とさないわれらの父は、人目につかず人々から見捨てられたこれらの花々を愛おしまれます

たとえ人に気づかれず、踏まれようとも、健気に咲く小さな花を愛されます

人目につく花々にも父は祝福されますが、
これらこの世の栄光を受けない幼き小さな花々の献身には、さらに祝福をしてあげたい、さらに褒めてあげたい
そうした思いをお持ちです




愛を受け入れられない者



愛ある者となるためには感謝することと申し上げました

感謝するとは
感謝は天の父に愛されていることを知ること
神の愛を素直に受け入れることです

父の愛を受け入れない者は、まるで乳飲み子が乳を拒むかのようです

放蕩息子のたとえがあります

ある父親が財産を二人の息子に分けました
下の息子はその財産で放蕩の限りを尽くして、あっという間に財産を全て無くし、食べるにも困り始めた
彼は罪を犯したことを悔い、もう息子と呼ばれる資格は無いので、雇われ人となってでも食事にありつこうと父親のもとに行きました
父親は息子を見つるなり、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻し
そして贅沢な服を着せて豪華な食べ物で祝宴をひらいた
死んだと思っていた息子が帰ってきて、財産を潰したことなどとがめず、無事であることを祝ったのです

天の父も同じように、罪を犯した者であっても、自分の元へと立ち返り、父の愛を受け入れることを願っているのです

父の愛を受け入れられず、信じられない者は、暴れたり、騒いだり、罪を重ねる者です



あなたは愛されている


わたしの伝えたいシンプルな言葉は「天の父はあなたを愛されている」ということです

天の父の愛を受け入れたなら感謝の気持ちが生まれます
感謝からは神と人への愛が芽生えます
愛からは無償の奉仕が生まれます

父の愛、それは目に見えず、手に触れられません

だから人々はそれを信じられないと言います

目に見えず耳で聞こえず鼻で匂いを嗅げず、であるからこそ信じるということが重要となってくるのです

目に見える物をただあると認めることに何の価値があるでしょう

それはただ事実をそのまま語っているに過ぎません

本当に価値あるものは目に見えず、存在を証明できないものです

ですから人々は何時の時代も目に見えない存在を信じ、敬ってきました

愛の思いは目に見えず耳に聞こえませんが、みなさんのハートはその存在を感じ取ります

真に人に大切なものはハートにてその存在を感じ、受け止められるものなのです

二千年前に語られた人の子の愛の言葉は、人々の心の内を伝い、今にいたるまで受け継がれてきました

人の子の愛は、その存在をみなさんの前に取り出して証明は出来ません
しかしその愛の温もりは人々の心を伝い、何千年とたくさんの人のハートをあたためてきました

どうか大切なものはハートでしかその存在を認識出来ないことを知ってください

目は色を感じるように、耳は音を感じるように、ハートは愛を感じ取ります

目・耳・鼻・舌・皮膚からなる五感はこの世の物を理解するための器官であり、ハートはこの世を超えた存在を理解するための器官です 




日々に主の前に出て対話すること



肉体をもちて生まれしより、人は五感を頼りに生き、その豊潤な刺激に酔いしれています

ですから日常生活に区切りをつけ、五感を静めるように、日々孤独にて主と対話する時間をもってください

喧騒を離れて、独りにて肉の目を閉じて、心の目を開いて主を思い、主に感謝し、日々の過ちをお許しいただけますよう祈ってください

あたなを愛してやまない天の父はそのあやまちを許してくださいます

人に褒められたいがための見せ掛けの祈りや悔いは何の意味もありません

主はその悔い改めが見せ掛けであるか、真に心を打ち反省の涙を流されているか知っておられます

日々謙虚であること
如何なる業も思いも、慢心あれば無に帰します

悪霊を追い出し、病を癒し、異言をなし、如何なる奇跡を行おうとも、慢心あれば禍いとなります
自ら己の業に酔いしれ、美酒に酩酊しているように見える姿は、主の目にはこの世のけがれに充たされた汚水を好んで飲む姿に見えます

主の目は真実を見抜き、くらまされることありません

たくさんの書物を読み、知識を集め、この世に精通し、教養ある者と呼ばれようとも、素朴な信仰を持つ者を嘲笑したる者
自らは砂金を集め宝石に囲まれているように思い違いしていようとも、主の目にはゴミ溜めを集め、世の汚れをかき集めて囲まれている姿と見えます

施しをなし、善行を積んでいるつもりでいて、その実は、人々の称賛と誉れを求めている者
栄誉に浴しているつもりでいようが、主の目には、与えられた名誉が身を焦がす硫酸となって降り注ぐ姿が見えます

この世の成功をおさめ、力と金を持ち、人々からうらやましがられようと、その内に貧しき者を見下し、失敗したる者をさげすむ思いあれば、主の目には懐に重し石をだいて冷たい水に溺れていく姿と写ります

たくさんの地位や名誉や金銭は重し石となり、その与えられた量が多いほど無惨に溺れてゆきます

反対に己を低くするものは、たとえその身なり貧しくとも主の瞳には光り輝くビロードのマントに包まれてうつります

教養なき者であっても、己の無力さを知り、神を畏れるならば、勝利の王冠を得ます

称賛されることなく惨めに思える者であっても、謙虚さを知り、人目につかず主の好まれる業をなす者は、主は人々の前にたたせ祝福されます

義のために世の人々から笑われた者は、主の勝利の杯をいただくでしょう



真に幸いなる人



まことに幸いである人とはどのような人でしょう

たとえ巨万の富を得て、この世のあらゆる物を所有しようとも、その人は幸いな人とは言えません

たとえ人々から称賛され、数々の栄誉を讃えられ、無数の賞を得ようとも、その人は幸いな人とは言えません

たとえ愛する者にかこまれ、苦難なく、平坦な道を歩み、喜びのみに暮らしていても、その人は幸いな人とは言えません

たとえ聖霊と対話し、奇跡の業をなし、悪霊を追い出し、病を癒し、死人を生き返らせるとしても、その人は幸いな人とは言えません

たとえ天文に通じ、万巻の書を読み、未来を予言し、歴史に通じようとも、その人は幸いな人とは言えません

たとえ善行をなし、愛に満ちて施しをなし、進んで人の役に立つ行いをなすとしても、その人は幸いな人とは言えません

苦難と見えせし事柄は父から与えられた愛深きプレゼントと思い
あなたを苦しめているように思える相手が、その実、あなたを愛するために父から使わされた御使いと思えるなら
その人はまことに幸いなる人となります



苦難の時にある



人はともすれば独りよがりとなり、自分一人が苦しみの淵にあるように感じます

はたしてどれだけの者が主の苦しみ悲しみに想いを馳せたことがあるでしょうか

天の父は人類七十億の苦しみを一身に背負われています

もし主が荷を負うことを厭われたなら、世は一瞬にして消滅するでしょう

罪人と苦しみ多きこの世を滅ぼさず、残されているのは天の父の至上の愛にほかなりません

幼き者は自らの苦しみを通してようやく人の苦しみを理解するに至ります

どうか主の苦しみにも想いとめていただきたい

人は己一人の苦しみにさえ投げ出したくなるでしょう
数十億の苦しみを一身に背負うことはかなわないでしょう


苦難にあるとき、人の目にはなぜにそのような果実をえなければならないかわからないかもしれません

ヨブの物語に同じです

主に不平をいうまえに、自らに問うて欲しい
はたしてご自身は世の闇を取り除く努力をどれだけしてきただろうかと

己に降り懸かってはじめて見るのですがいままで同様な苦しみのうちに置かれた方はたくさんいらっしゃるでしょう

いままでそのような方の悲しみに目を向けてこられたでしょうか

自らに降り懸かってはじめて人の世の苦しみに目を向け、他人の悲しみを理解するようになるのが人間ではないでしょうか



守護天使の思い



人にはだれにも守護の天使が寄り添っていることを聞かれたことがあるでしょう

では彼らはどのような思いにて、地上の人の苦難を見ているでしょうか

あなたがたを世に使わすのは、狼の群れの中に子羊を送りだすような心境で見守っています

それでも何事にも手を貸してしまうということはいたしません

たとえて言うならば、幼き子が転ぼうとも、その子に自ら立ち上がる力が備わっていると信じられるなら、あえて隠れて見守る親の心境に似ています

それはけして危険な目に合わせたいからではないのです

もとの世界へと帰った時には、よく頑張ったね
あの苦難と悲しみのうちをよくくぐり抜けてきたね、と肩を抱き寄せて頬にキスしながら褒めてあげたいから、優しく抱きしめてあげたいからなのです

そうした思いで見守っいることを知っていただきたいのです

けっして苦しみを与えて喜んでいるのではないということを知っていただきたいのです


あたなには苦難を乗り越える力が備わっていると、信じていればこそ、涙を流して見守っているのです 



不幸や悲しみにあった時



なぜ どうしてとあなたは問います
自らが不幸にあった時
世の中の不正や悲しみを見た時
なぜこのような目にあうのか、神がいるのなら答えてくれと祈るでしょう

答えを求めてさ迷ったり、人に頼り、あるいは諦めてふさぎ込む事もあります

主は沈黙の内に答えられているのではないでしょうか
他人や社会が何をしてくれるかではなくあなたが何をするのかを問われているのではないかと問うてみるのです
世に問いかけるのではなく、あなたが問われている存在なのです

まるで雛鳥が口を開けて親鳥が餌を与えるのを待っているように
まわりを見渡すと同じく餌が足りないとただ鳴き叫ぶ雛がそこかしこにひしめいています
誰かがそれに気が付き、今度は自分が与える側にたとうとする時
多くの者が気が付き、与える側にたつとき人類はかわります
アセンションの扉を開きます


憎しみ恨み嫉妬や不平不満



憎しみ恨み嫉妬や不平不満
これらは自らを汚し人をも傷つける思いです
しかし本当のところは愛を求める行為の裏返しとなっています

憎しみは相手が愛してくれないと思うから

恨みは愛を理解してくれないと思うから

嫉妬はその人のように愛されたいと思うから

不平不満は自分に与えられる愛が足りていないと思うから

このような思いとは愛を得ようとしていまだ満たされないという考えから出ています

愛のある人は自らがたくさんの愛を与えられていることを知っています

愛は見返りを求めない与えんとする思い
すでにたくさんのものを与えられていることを知り、人にも分け与えんとします

優しさは愛

安らぎは愛に満たされていると感じる時に生まれます

感謝は愛されていることを知ること

愛するのは自らに与えられてきたたくさんの愛を分け与えること

悔い改めは拒んできた愛を素直に受け入れること


愛を奪い得ようとする思いと、愛を与えんとする思い



人の思いは、愛を奪い得ようとする思いと、愛を与えんとする思いに分かれます

このように両極端に分かれる思いも、結局のところ足らざることに目を向けるか、満ちていることに目を向けるか、
あるいは真の愛を受け入れずに必死にまわりからかき集めようとしているか、素直に受け入れまわりにも分け与えようとするかの違いとしてあらわれています

どちらも愛についての考え方にてわかれていると言えます

いつまでも満たさないと砂漠をゆく旅人のようにさ迷い歩くのか
汲めども尽きず永遠に渇くことない泉を飲むか

あなたはどちらを選ぶでしょう


真実の自己と偽我



天から溢れる愛を肉体我が拒びます

人が肉体に宿ってより、自らでないことを経験します

それは自らの本質を知るために

そのためには反対の体験をしなければわからなかいからです

肉体に宿ることでこの世界を体験することができます
他者との分離と、霊的本質でないものを知ります

ですが人は本質でないものを自らと錯覚してしまいます
エゴの錯覚は自と他を分けて分離を学びます
そして錯覚に囚われることで人は満たされないと感じるようになりました

満たされぬ思いは精神の渇望となり、まわりから愛というエネルギーを奪うことで癒そうとします
ですが海水で喉の渇きを癒そうとする哀れな漂流者のようにますます渇きは激しくなります

悔い改め感謝して生きる霊には汲めども尽きぬ命の水が湧いてきます
その水は分かち合うほどにますます水量を増していきます

自らを通して神の愛を世に流していく事が大切です

没我は真実の自己に目覚める為の道具です

我を無くすとは個性を消すことではなく
神の道具として生きることが真の自己実現であり
個性を発揮していく道となります

パイプが流れる水を自らのものとしては流れなくなります

世に光の足りないのは光のせいではありません

それは天と地を繋ぐ柱たる人間が流れをとどめているから

栄光は神にお返しして自らは謙虚に生きることです

愛の光を降ろすパイプ役として働いていた者がいつしか自らの力と過信し、役割を取り違えることがよくあります

ですから自らは道具として働いていると自覚し、栄誉は天の父へと帰すように

愛の光であふれれば地球はアセンションしユートピアとなっていきます

干からびた大地にはまだまだ水が足りていません
天から降る水で潤せば、世は緑豊かな大地へと生まれ変わります


素朴で小さな花たちへ



まだ小さな若木だとしても、大木をうらやむことなく、みずからのなせることをなしてください

小さいがゆえに 充分な実りをなせず、人々から笑われたり蔑まれることもあります

そんな小さな実りが何の役に立つかと、自己満足にすぎぬと言われるでしょう

そうした言葉に心奪われず、ただみずからのなせることをなしていきなさい

小さいからといって歎かずともよいのです

天の父はたとえどのような小さなもののなすことも見落とすことはないのですから

人々に目につかず気づかれないからこそ道を歩んでいけます

派手なおこないや言葉は、人々の気を引き付けるでしょう

だが称賛するものもいれば、揚げ足取りをしようとするものもあらわれます

人々に気づかれず静かに歩むからこそ遠くまで進むことができるのです

人からの称賛を求めず、ただみずからの道を歩んでいきなさい


神の愛に思い巡らす時



不安な状況や、辛い出来事に直面したときこそその人の本性があらわれます

普段は玉のように美しい言葉を並べていても、いざみずからが苦境にたたされたときに平静でいられるか、他のひとのことを思いやれるかが問われています

苦しみから逃れたところに住むものも、普段はいかに恵まれた環境にいたのか、当たり前と思っていたことがいかに幸いであったかを思い巡らす時ではないでしょうか

いかに皆さんを生かさんとする愛に満たされて生き、胎児が羊水に包まれているごとき深い神の愛に育まれていたかに思いいたるでしょう

もし天の父があなた方を養うことを願わなくなれば、人はひと時も生きていることはできません

生かされていることを知り、当たり前と思い上がっていたことを悔いなければならないのではないでしょうか

小さな子供が親の手を離れてわがままに振る舞うように、人間は養われていることを忘れ自らの力に溺れています

誰があなたたちを育み養ってくださるお方のことに気がつきましたか

誰がその愛に今まで感謝してきたでしょうか

もう一度神の愛に思い巡らす時ではないでしょうか



アトランティス大陸の滅亡の教訓



かつてアトランティスという地がありました

信じる者も少ないですが、一夜にして海中に没したとされる伝説の地です

アトランティスが滅びる前には様々な天変地異がありました

それは天からの警告の意味もあったと思われるのです

何故そのような悲劇に見舞われたのかと考えれば、人々が科学万能に酔いしれ、神を信じず、あの世も否定し、自らが万能の神に成り代わったかのごときおごりがあったのではないでしょうか

信じられないかも知れませんが、アトランティスでは空を飛ぶ飛行船も潜水艦もあり、人と動物を掛け合わせたような生物を作り出すことまでされていたのです

そうした工場があり、猿と人とを掛け合わせたような者、鳥のごとき翼を生やした者、人とライオンと、あるいは人と魚との混ざったような者まで造られました

そうした者の一部は現代の妖怪や幻の生き物として語り継がれているものもおります

人の顔にライオンの身体のスフィンクスや、牛と人との掛け合わせによって力仕事をやらせるために作り出された者は日本では鬼として呼ばれています

魚と人との中間は、人魚や半魚人、あるいは河童と呼ばれる姿の者もいました

彼らは奴隷階級として、当時のアトランティス人の生活を支えるために作り出されていきました

また様々に気象を操る力をも手にしていました

意のままに雨を降らし、風をおこし、雨を降らせ、地震をおこし

人々は生物を作り出す能力と、気象を自在に操る力に酔い、神にでもなったかのごとくに勝ち誇っていました

振動器である特殊なクリスタルにエネルギーを当てると、特定の土地と共振させることで地震をおこすことができた

アトランティスの直接の沈没の原因は、その気象兵器の暴走と言えるでしょう

その遠因には、神への敬いを忘れ、おごった人々の思い上がりがあったのです

神の愛はそれ以上人々が過ちをおこさないように留める思いとしてあらわれることもあるのです

現代も遺伝子操作や核の力を人類は手にいれております

それ自体を否定するわけではありませんが、人々が科学万能に酔いしれ、神の愛をないがしろにするならば、アトランティスの末期と同じ運命をたどるのではと心配しております

どうか同じ過ちを繰り返すことなく、科学の力をおごらず、謙虚になっていただきたい

人は神の愛によって生かされていることを知ってください

そして日々謙虚におごらず、自らの過ちを悔い改め、感謝して生きてください

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1 件のコメント:

  1. ありがとうございます。
    神の愛をいただいていることを日常忘れがちです。
    ですがこうして今も沢山愛を受けて生きている事を感謝します。
    胸が熱くなります。

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