
※2026年5月2日に加筆・再構成しました。
「平和を愛する心さえあれば、戦争は起こらない」――そう信じていた頃が、誰にもあったかもしれません。
しかし現実の世界は、ときに私たちの理想を大きく裏切るような形で動いていきます。
今日は、その難しい問いを、ブータンという国を入り口に、一緒に考えてみたいと思います。
世界一幸福な国・ブータン
ブータンは親日国家としても知られ、国王が来日されたときは、綺麗な王妃と、国会演説が話題となりました。
このブータンはチベット仏教を国教とする国で、世界一幸福な国家とも言われています。
国民が平和を愛する善良な人々のたくさん存在するブータンですが、現在、領土の一部について近隣の大国による領有権の主張を受けており、緊張が長く続いているとされます。
係争地は約八千平方キロ、兵庫県と同等の広さに及ぶとも報じられています。
「平和を望めば争いは起こらない」のだろうか
そこに住む人々が平和を望んでいたら争いは起こらないのなら、ブータンこそもっとも平和に暮らせる国家であるはずなのに、大きな軍事力を持つ近隣国の主張になすすべなく対応を迫られているのが現実です。
さらに遡って見ると、チベットも国民は非常に平和的で、信仰心厚く暮らしていました。
そのチベットに、ある時期から大きな影響力を持つ周辺勢力が入り込み、事実上の支配下に置かれてしまいました。
チベットの現在に続く厳しい状況は、いま様々な情報源から知ることができます。
「平和な思い」だけでは守れないものがある
ですので、「平和な思いを持っていたら平和になるか」といえば、そうとは言いきれません。
相手が一方的に侵略や攻撃をしてきたら、いくら「暴力はいやだ」と思っていても巻き込まれてしまいます。
これは決して、力による解決を称揚する話ではありません。
むしろ、「平和を本当に守るには、祈りと現実的な準備の両方が必要」という、深い霊的真理を示しているのです。
『神との対話』が教える、愛と毅然さの両立
以下に、ニール・ドナルド・ウォルシュの『神との対話』という本で語られている言葉を紹介します。
愛情ある態度をとるということは、必ずしも相手の好きにさせるということではない。子どもを持った両親はそのことをすぐに悟る。大人が大人に対する場合、国が国に対する場合には、そう早くは悟れない。
だが、横暴な独裁者を栄えさせてはいけないし、横暴はやめさせなくてはいけない。自分への愛がそれを要求する。
これが、あなたの「あるのは愛がすべてだとしたら、どうして人間は戦争を正当化できるのですか?」という問いへの答えである。
ときには、人間は真の人間らしさを表す偉大な宣言として、戦争を嫌悪する人間として戦争へいかなければならない。
ときには、本当の自分であるために、本当の自分を放棄しなければならない。すべてを放棄する覚悟をするまでは、すべてを手に入れることはできない、と教えた<マスター>たちがいる。
したがって、平和な人間としての自分を「まっとうする」ために、戦争に加わらない自分という考え方を放棄しなければならないかもしれない。歴史は人間にそんな決意を求めてきた。
「相手の好きにさせること」が必ずしも愛ではない
この一節は、私たちの常識的な「愛」の理解を、根底から揺さぶるものです。
愛とは、優しさだけではなく、必要なときに毅然と『ノー』を伝えることでもある。
それは個人と個人の関係でも、国と国の関係でも、本質的に同じです。
個人の人生にも当てはまる、同じ霊的法則
同じことは、私的な関係についても言えます。
家族や友人、職場での関係でも、一方的に侵される状況を「私が我慢すれば平和になる」と諦めて受け入れてしまうことが、ときに自分自身と、相手の魂の双方を傷つけてしまうことがあります。
相手のためにも、毅然と境界線を引くことが、真の愛であることがあるのです。
祈りと毅然さを両立する三つの実践
一つ目は、「平和を祈ることと、現実の備えを両立すること」です。
祈りは尊い。同時に、防災・防犯・健康管理など現実の備えも怠らないでください。両方が揃って初めて霊的な平和が地上に降ります。
二つ目は、「人間関係で侵されている境界線を、優しく引き直すこと」です。
相手を恨むのではなく、「ここから先には入らないでください」と静かに伝える勇気を持ってください。
三つ目は、「世界情勢のニュースを、感情ではなく祈りで受け取ること」です。
ニュースに憤るより、苦しむ方々の安らぎを祈る時間を持ってください。それが世界の波動に確かに届きます。
真の平和は、毅然とした愛から生まれます
ブータンの方々、チベットの方々、そして世界中で困難な状況に置かれている方々の安らぎを、心より祈ります。
明日もどうか、ご自身の中の「優しさ」と「毅然さ」の両方を、大切に育んでくださいますように。
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