ある晴れた日のこと。
年配の禅僧と若い弟子が旅をしていました。
彼らの前には橋のない川が流れ、そこに一人の女性が立ちすくんでいました。美しい着物を濡らすことを恐れ、向こう岸へ渡れずに困っていたのです。
年配の禅僧は穏やかに言いました。
「お困りでしょう。私が背負って渡りましょう」
彼は女性を背負い、力強く川を渡り、向こう岸でそっと降ろしました。女性は深く頭を下げて去っていきました。
禅僧は何事もなかったかのようにまた歩み始めます。
しばらく歩いたあと、若い弟子はついにたまりかねて言いました。
「師よ、なぜ女性に触れたのですか。戒律に反します!」
すると師は静かに笑いながら言いました。
「私はもう、あの女性を川の向こうに置いてきた。お前はまだ女性を背負っていたのか」
教義に囚われる心は、自由を失う
この逸話が教えてくれるのは、戒律やルールに心を囚われてしまうことが問題だということです。
戒律や規律は、本来、人を清らかな生き方へと導くための道具であるはずです。
けれども、人はしばしば「正しさ」や「純粋さ」を守るあまり、その「形」に縛られてしまうのです。
若い僧は「教え」に忠実であろうとしたがゆえに、師の慈悲の心を理解できませんでした。彼の中では、戒律が愛を超えてしまっていたのです。
それこそが、真の執着です。
批判する者こそ、執着の虜になっている
また、この逸話は私たちの日常にも通じます。
他人を批判し、あの人は間違っている、あの人は不浄だ、と言い続ける人がいます。
しかし、実はその「批判する心」こそが、最も強い囚われなのです。
「正しさ」を盾に他者を裁くとき、人は自分の中にある恐れや不安を見つめずに済むようにしています。
他人の行為を責めることで、自分の心の影を見ないようにしているのです。
若い僧が師を責めたのも、実は師の行為よりも、自分の心の動揺に耐えられなかったからです。
現代の「正義」という名の囚われ
この構図は、現代の社会にもよく見られます。
とくにインターネットの世界では、他人の過ちを見つけては激しく非難し、群れをなしてバッシングする光景が日常のように繰り返されています。
もちろん、不正を正そうとする気持ちは理解できます。
しかしその「正義の心」が憎しみや攻撃のエネルギーに変わった瞬間、それはすでに「歪んだ正義」となってしまいます。
批判を正当化しながら、実はその人自身が怒りと優越感に囚われているのです。
真の正義とは、裁くことではなく、理解し、導くことです。
もし誰かの過ちを見たなら、怒りよりもまず、自分の中にある同じ影を見つめる勇気を持つこと。
それが、魂の成長への第一歩です。
「置いていく」ことの智慧
師が言った「私はもう川の向こうに置いてきた」という言葉は、禅の核心を突いています。
人は、何かを経験しながらも、いつまでも心の中でそれを抱え続けてしまいます。過去の出来事、人への怒り、正義への執着…。
しかし悟りとは、それらを手放し、置いていくことにあります。
慈悲の行為を行い、必要があれば規律を超えてでも人を助ける。そしてその後は執着せず、ただ清らかな心に戻る。
それが真の自由であり、禅の目指す境地です。
真に自由な人とは
真に自由な人とは、「正しいかどうか」ではなく、「愛があるかどうか」で生きる人です。
教義に固執せず、他人の行為を裁かず、常に心を澄ませて今を生きる。
戒律を守ることも尊いことですが、それが愛を失わせるならば、本末転倒です。
「置いていくこと」「執着しないこと」こそが、魂の成熟の道。
川を渡ったあと、背中に誰を背負い続けているのか――
それを見つめるとき、あなたの心もまた、自由の岸へと渡り始めるのです。
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