あるラッパーの方の前世を拝見したとき、意外な光景が浮かび上がりました。
ラップといえば、アメリカのストリートカルチャーに根ざした表現だと考えがちです。
しかし、その方の魂の記憶には、平安時代に歌を詠んでいた姿が映し出されたのです。
調べていくと、平安の宮廷では「歌合(うたあわせ)」と呼ばれる催しがありました。
これは一対一で即興的に歌を詠み、優劣を競う文化で、まるで現代のラップバトルに通じるものでした。
ラップと雅な歌の世界は、まったく別物のように見えます。
けれども、言葉の技巧を尽くして場の空気を掴み、聴衆の心を揺さぶるという点では、実は深い共通点があります。
韻を踏んで観客を沸かせるラッパーも、掛詞や縁語で場を魅了する歌人も、どちらも「言葉の力」を自在に操り、瞬時に相手に応答するセンスを試されているのです。
魂は時代を超えてもなお、同じ表現方法を選び取るのかもしれません。
ちょうど先日、古典の紹介番組で小式部内侍の逸話を耳にしました。
彼女の代表作として小倉百人一首に選ばれた歌があります。
「大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」
当時、小式部内侍の歌は母が代作しているという噂が流れていました。
ある歌合で、四条中納言が「母に代作を頼む使者は出しましたか」とからかうと、彼女は即興でこの歌を詠んだのです。
「行く野・生野」「文・踏み」といった巧みな掛詞を織り込み、当意即妙の切り返しを見せた小式部内侍に、からかった相手は返歌もできず立ち去るしかなかったといいます。
この一件で、彼女の名声は一層高まりました。
この場面を思い起こすと、まるで現代のラップバトルにおける「パンチライン」の瞬間そのものです。
ラッパーが繰り出す一言で会場がどよめくとき。
歌人が即興の一句で相手を圧倒するとき。
そこには共通して「言葉の霊(ことだま)」が働いています。
魂は時代ごとに衣を替えながら、同じ「表現者」としての使命を果たしているのかもしれません。
ラップと歌合。
異なる文化に見える二つは、実は「言葉を通じて魂の光を放つ」という一点で結ばれているのです。
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