身近な家族に認知症の方がいらっしゃると、毎日の介護に追われ、心の余裕が失われていくことがあります。
「どうしてうちの親が、こんな姿になってしまったのだろう」
そんな問いを、何度も心の中で繰り返してこられた方も多いでしょう。
霊的な視点から見ると、ご家族の認知症と、それを介護する方との関係には、表面には見えない深い意味が秘められていることがあります。
今日は、認知症の親や祖父母を介護することに、どんな霊的な意味があるのかを、私自身の体験も交えながら、丁寧にお話ししていきます。
「あの世に帰ってくれればいいのに」と思ってしまう、その心の奥にあるもの
介護が長引くと、心の中で「もう、すっとあの世に帰ってくれたほうが、本人も楽なのではないか」と思ってしまう瞬間が、誰にでも訪れることがあります。
ご自身を責めなくて大丈夫です。
その思いは、冷たさからではなく、限界まで頑張り続けた方の、悲鳴のようなものだからです。
けれども、この世で起こる出来事には、ひとつひとつに何らかの意味があります。
認知症という現象にも、霊的に見れば、深い学びの仕掛けが組み込まれていることが多いのです。
介護は、生前最後の「恩返しの時間」になることがある
主にお子さんが介護に回られるケースが多いのですが、それは霊的に見ると、子供の頃に育てていただいた恩を、生前の親に返すための時間が用意されている、とも言えます。
多くの方は、親が亡くなった後に、「もっとよく接してあげればよかった」「あの時の言葉を撤回したい」と、深く後悔されます。
あの世に旅立った後の後悔は、想像以上に重く、ご自身の魂を長く苦しめることもあります。
けれども、介護を通じて少しでも恩返しの時間を持てれば、その思いは形となって、親にも、ご自身の魂にも届きます。
過去のすれ違いやとげとげしいやり取りが、介護の中で少しずつ和らぎ、最後に交わすほほえみとして残っていくこともあるのです。
私自身の経験|祖母を介護した中学生の頃の記憶
私の場合は、祖母が晩年に認知症のような症状が出て、徘徊することもありました。
病気もあって入院していたのですが、夜間に病院から徘徊するようになり、家族で交代で見守ることになりました。
当時はまだ中学生でしたが、私も泊まり込みで様子を見ていた時期があります。
子供の頃、祖母には何度か厳しい言葉遣いをしたこともありました。
その時間を共に過ごすことで、声に出さない形ではあっても、ささやかな償いができたのではないかと、今振り返って感じます。
母親も晩年は認知症ではありませんでしたが、入院した際にお世話することがありました。
子供の頃に受けた恩からすればわずかな時間ですが、それでも「何もしないまま見送る」のとは、心の重さがまったく違うことを、身をもって学びました。
カルマの解消としての、介護という時間
霊的に見ると、介護という時間は、過去世から持ち越したカルマを清算する貴重な機会でもあります。
過去世で親や祖父母にあたる魂と、何らかの未消化の感情を抱えていた場合、今世の介護を通じて、その感情を和らげる作業が促されることがあるのです。
同時に、介護を担う側にとっても、忍耐、慈悲、許しといった魂の質を磨く、大きな修行の場となります。
表面的には大変な時間が、実は霊的に最も深く成長できる時間として用意されていることが、少なくないのです。
無理をしすぎない、霊的な介護の姿勢
霊的な意味があるからといって、すべてをお一人で背負う必要はありません。
むしろ、無理をして共倒れになってしまっては、本来の学びすら届かなくなってしまいます。
使えるサービスは遠慮なく使い、ご自身の休息の時間を確保する。
そのうえで、親と顔を合わせる短い時間に、心からの言葉やまなざしを差し出していく。
その小さな温度こそが、お互いの魂に最も深く届く介護のかたちです。
今日からできる、介護の時間と向き合う一歩
もし今、介護の中で疲れ切っているなら、今日一日だけでも、こう自分に許可を出してみてください。
「私はもう十分にやっている。今日は、自分のための時間を少しだけ取ってよい」
そして、夜眠る前に、認知症の親や祖父母の方に、心の中でこう語りかけてみてください。
「育ててくれてありがとう。今、こうして共に過ごせていることにも、意味があるのだと思います」
言葉が届かなくなった相手にも、魂のレベルでは、必ずその想いは伝わっています。
認知症は、ただの不運の産物ではなく、そこには学びの意味があることを知っていただければと思います
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