光と闇の戦いなどというと、善悪二元論だとして否定する者もいます
善悪二元論は古い考えだから捨てなければならないとしたり、スピリチュアル界隈でもよく言われます
しかしそうした否定する考えを広めているものは一体何者なのかを考えてみないといけません
善悪二元論を否定する考えは政治分野でも広まっており、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の『白熱教室』などでも両論併記が過ぎて、結論が出せない、絶対的な善も悪も無いという考えが広まっています
確かに仏教などでも善悪不二といって両者を明確に区別できないものだと捉える向きもあります
ですがお釈迦様の根本的な教えは四諦八正道といいますけど、これは八つの正しい道を歩むことで真理にそった生き方をするというものです
八つの正しい道を物差しにすると言うのはつまり、正しい生き方と誤った生き方を区別するという事です
区別できなければそもそもどれが正しいかなど分かりません
動物も善悪の区別なく生きていますが、人間は善悪を判断することで道徳的に生き、物事を区別することで知恵を獲得します
善悪の区別も無いというのは動物に成り下がるのと一緒と言えるでしょう
仏教で善悪不二と言っているのは、より高次の視点から人生を俯瞰すると、悪と見えていたものも実は自分を学ばせ、生かすために働いていたものであったり、苦労や悲しみとみえるものも、実は魂を磨くためのものであったりするからです
このように俯瞰して見れば悪と見える物も実は善の部分が含まれている事もありますし、それを善悪不二という言葉で表しているのです
ですが今現在地上に生きている私たちは絶えず判断をして生きており、分別をして生きなければなりません
その時に、どちらが善であり悪であるかを判断して選んでいかなくてはならないのです
では善悪の判断を否定するような考えが広まったらどうなるのでしょうか?
そこには被害者が泣き寝入りし、加害者が得をする社会が展開されるのです
日本はもともと善悪の区別をつける働きが弱い国です
どちらが善でどちらが悪かを明確にするよりも、和を大事にする所があります
それはそれで美徳でもあるでしょうが、善悪を明確に区別しない事で、問題も起こります
たとえばイジメ問題でもそれが言えるでしょう
いじめ問題では、いじめた側といじめられた側の違いがあるはずです
しかし日本ではその善悪を分けて考えるのをせずに、ただ学校での和を大事にし、大ごとにしない事を優先します
するとどうなるかというと、被害を受けたいじめられた側は泣き寝入りをし、いじめた側はお咎めを受けずに済むことになるのです
こうした日本型のいじめ問題が横行するのも、日本人には善悪の区別が強くないからです
いじめた側にも言い分があり、いじめられた側にも問題があるなどと言っていては、いじめ問題は永遠に解決しないでしょう
ハッキリと善悪をつけて、いじめはダメだと指導しなくてはなりません
日本でいじめが蔓延するのも、この善悪の区別するのを否定する傾向が強いからです
善悪を区別しない事はつまり、善を行うものが損をして、悪を行うものが得をする社会になっていきます
そうすると誰が得をするか分かるでしょう
善悪の区別をなくさせることは、悪の存在が喜ぶことなのです
そのためネガティブな存在が一生懸命にこうした間違った思想を流布しようとしています
言論人やチャネラーや霊能者などを通じて、ネガティブな存在が善悪をつけさせないようにしています
そうすることで自分たちの悪を誤魔化して、糾弾されないようにするわけです
まず人間として重要なのは、善と悪を区別する知恵であり、それに基づいて善を取り悪を離れる事です
仏教でも七仏通誡偈といって、お釈迦様を含めた過去に現れたすべての仏様に共通する教えを述べているものがあります
そこには諸悪莫作(しょあくまくさ)と衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) という偈があります
つまり悪を去り、善を取れという教えです
善悪は人間にとって基本的な教えであり、それが十分に出来てこそ、次の段階で善悪不二も出てくるのです
単純に動物のように善と悪が判断できない状態をいうのではありません
天使と悪魔を一緒にしたり、善人も悪人も一緒だとする思想は世の中を狂わせるものです
ネガティブな存在の流布する間違った考えに引っかからないように注意してください

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