2021年1月9日土曜日

この世の不幸や悲しみ苦難のスピリチュアルな意味とは?


私たちは霊的な世界から、この地上へと降り立った存在です

霊的な世界というものは自由自在な世界であり、思いによって世界が展開されていきます

この世の世界というのは、肉体という重い鎧を被った世界であり、本来の世界からすれば、たいへん不自由な世界でもあります

こうした物質世界に私たちが降り立つ理由には、厳しい世界において、自らの体験をし、経験を深めていくという理由があります

自由度の高い霊的世界においては得られない厳しい状況を、自らに課して経験するために、この世へと降り立ちます

それは言ってみれば、何不自由のない生活をしていると、魂に贅肉がついてしまい、筋肉も失ってしまうため、厳しいトレーニングを積むことを自らに課すようなものです

あの世では自由であるということは、抵抗や摩擦が無いという事であり、まるで無重力空間で生活しているようなものです

宇宙船などで生活する飛行士は、無重力で長く暮らしていると、筋肉が落ちてしまい、地上に降りてくると自分で歩けなくて、車いすに乗って送られることがあります

私たちの魂も、あの世の生活で無重力のような自由度の高い生活を送っていると、筋肉が失われてくるような状況になります

そのため、負荷のかかるこの世へと輪廻してくるのです

この世は魂にとって、いってみればトレーニングジムのようなもので、重い負荷をかけて鍛え上げられる場所です

この世において困難があるのを、わたしたちは嫌だと思いますが、そうした事が起こるのを覚悟のうえで生まれてきています

苦難や困難というものを経験して通る中で、私たちの魂は磨かれて、鍛えられることを魂は知っているからです

そうして宝石のように磨かれて光を発するようになって、わたしたちはまた元の世界へと返っていきます


不幸や悲しみに意味はあるのか ヨブの嘆き


この世に生れ落ちてから人は様々な出来事に遭遇し、なかには受け入れがたいことや、理解できないことに会うこともあります

人生に起こる出来事が、はたして偶然に、サイコロを振るように運任せで起こるのか、それとも、すべては必然で、起こる出来事の裏にはすべて深い意味が潜んでいるととらえるかの、二つの大きな人生観の枝分かれがあります


古来においても、このテーマはよく議論の的になっており、そのうちの一つとして有名な旧約聖書のヨブの問いがあります

旧約聖書の「ヨブ記」には、善良なヨブに次々と災難が降りかかり、全財産も子供や家族も失い、ついにヨブ自身も恐ろしい病気にかかり死にそうになってしまいます

そしてヨブは「神様がいるのなら、何故このような不幸な目にあうのか」と嘆きます

ついには神様がヨブの前に登場し、「あなたは世界ができたときのことを知っているか」等、人間には到底知りえないことを次々と問いかけます

最後にはヨブは人間の知恵で神様を推し量る愚かさを悟って悔い改めます

この世に起こる出来事は、何故そのような事が起こるのか、人間の知性ではわからないことが多くあります

世界中で起こる様々な不幸な事件を見ていると、納得いかない、受け入れられないと言う人も多くいるでしょう

それゆへこの世は不条理な世界だととらえて人々にもそう説く人もいます

近代では実存主義哲学などがそうです

その反対に、人間がこの世に生まれてくるのは目的を持てであり、遭遇する出来事には必然的な意味のあると説く人たちもいます

それは宗教家であったりスピリチュアリストであったりします

仏教を例にとって見ると、開祖のお釈迦様は、大悟なされた時に人間の過去世・現世・未来世の三世を見通すことが出来るようになったといいます

過去の行為が現在に果実となって実り、現在の行為が未来の結果に繋がっている様を見通されました

これを難しい言葉では三世両重因果といいますけど、今世の結果だけを見たら、善良な人が不運な結果を得るように見えたり、悪人が栄えているように見えることもあります

ですが過去や未来まで見通して眺めれば、原因と結果の法則は、人生を通して存在しており、起こる出来事は必然的に決まっていると言うことになります

ヨブの問いは、自分の知性で理解できないから世界は不条理と考えるのは、有限な個人の定規で世界の大きさを測ろうとする分不相応な発想であると述べているのだと思います

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