「どうして自分は、こんな環境に生まれてしまったのだろう」。
そう胸の奥でつぶやいたことがある方は、決して少なくないと思います。
貧しい家、病弱な体、否定ばかりされた幼少期、片親の家庭。
自分の意思では選べなかったものの前に立ち尽くして、人生の不公平さを呪いそうになる夜があります。
けれど、長年いろいろな方の人生を見つめてきた私には、どうしてもひとつだけ伝えたいことがあるのです。
神様は、不幸と思えるものの中にこそ、いちばん大切な幸福の種をそっと隠して入れておられる。
その種は、人生のずいぶん後になってから、しずかに芽吹いてきます。
選べなかった環境を呪いたくなる夜に
前回は「親ガチャ」という言葉について書きましたが、生まれ落ちた環境のせいで自分は不幸だと感じる方は、本当に多くいらっしゃいます。
貧しい家に生まれて、欲しいものを我慢し続けた子ども時代。
体が弱くて、運動会も遠足も思い出が苦いものになってしまった日々。
親に否定的な言葉を浴び続けて、自分は価値がない存在なのだと刻み込まれてしまった心。
そうした過去は、振り返るたびに胸が痛みますし、目を背けたくなるのも当然です。
誰かに「あなたが悪いんじゃないよ」と言ってもらえるだけで、息ができるようになる場面もあるはずです。
その痛みを安易に「学びでしたね」とまとめてしまう人を、私はあまり信用していません。
痛みは痛みとして、まず認めてあげてください。
怒鳴る父と、従うしかなかった母のもとで
私自身も、決して恵まれた家庭の子どもではありませんでした。
暴力的でいつも怒鳴ってばかりの父親と、優しいけれど弱くて父親に従うしかない母親のもとに生まれたのです。
父からは毎日のように否定的な言葉を投げかけられ、些細なことで雷を落とされる日々が続きました。
そのせいで、大人になってからもしばらく自己否定の思いが強く、自分はダメな人間なのだという自己イメージを根っこのところに抱え続けていました。
そのイメージは、仕事や人間関係の場面で、見えないところから足を引っ張ってきます。
うまくいきそうになると、自分から壊してしまうような失敗を、何度繰り返したか分かりません。
不幸な生い立ちと言ってしまえば、たしかにそうでした。
けれど、長い時間が経ってから振り返ってみると、その同じ環境が、自分という人間を独特の形に鍛えてくれていたことに気づかされたのです。
痛みを知った人だけが触れられる場所
怒鳴られ続けた日々の中で、私は人の顔色を読むことを覚えました。
それは決して褒められた力ではありませんが、大人になってから、苦しみの中にいる方の表情や声色を、人より少しだけ深く受け取れるようになりました。
父の言葉に傷つき続けた経験があったからこそ、自分を責めて泣いている方の隣に、本当の意味で座れるようになったと思います。
痛みを知らない人の慰めは、どれほど言葉を尽くしても、傷の表面を撫でることしかできません。
同じような場所まで降りていったことのある人だけが、相手の魂のいちばん奥にそっと触れることができるのです。
その意味で、私の幼少期は、今こうして文章を書き、人の話を聴くための、長い準備の時間だったとさえ感じています。
あの環境が無かったら、今の私はおそらくいません。
普通の家庭に生まれて普通に成長していたら、今ごろは普通に勤め人をしていて、自分の考えを発信することなど思いつきもしなかったでしょう。
口下手だったからこそ、文章にたどり着いた
もうひとつ、私には大きな苦手分野がありました。
話すことが、本当に得意ではないのです。
自分の中の考えを、その場ですらすらと声に出すことができず、人と長く話し込むのも苦手でした。
そのため社交的な場にはなじめず、営業や接客の仕事は明らかに向いていません。
若い頃は、それを大きな欠点としか思えませんでした。
あの人のように流暢に話せたら、人生はもっと違うものになっていただろうに。
そう何度ため息をついたか分かりません。
けれど、口下手だったからこそ、私はじっくり考えてから言葉を紡ぐ習慣を身につけていったのです。
声に出すのが間に合わない代わりに、紙の上やキーボードの上でなら、自分の内側にあるものをゆっくり形にできました。
もしも私が流暢に話せるタイプであったなら、文章を書き続けるという地味な作業に、これほど時間をかけることはなかったはずです。
短所の裏側に、いつもそっと添えられている種
会話が苦手な人は、しばしば社交性が無いと誤解されます。
何を考えているのか分からないと言われ、損をすることも多いでしょう。
私もそうした視線にさらされてきました。
けれど、その同じ性質が、文章という形では一転して長所に変わったのです。
短所と長所は、別々の場所に立っているのではなく、同じ一枚のコインの裏表のように、いつもぴたりと重なり合っています。
家庭環境にしても、性格にしても、体の弱さにしても、ご自分が「これさえなければ」と嘆いてきたものの中に、まだ気づいていない種が眠っているはずです。
それは今すぐ芽を出してはくれないかもしれません。
けれど、季節が巡り、しかるべき時が来たときに、思いがけない場所で花を咲かせるのです。
神様はとても優しい仕掛けをなさいます。
いちばん痛い場所のすぐ隣に、いちばん大切な贈り物をそっと置いておかれる。
そして気づくか気づかないかは、私たち一人ひとりに委ねられているのです。
あなたの苦しみは、まだ途中の章にすぎない
今この瞬間、過去の出来事に押しつぶされそうになっている方もいらっしゃるでしょう。
その痛みを軽く扱う気持ちは、私には一切ありません。
ただ、どうか覚えていてほしいのです。
あなたの人生は、いまの苦しみで終わる短い物語ではありません。
もっと長い、もっと深い物語の、まだ途中の章を歩いているところなのです。
不幸と思えた出来事の中には、必ず将来のあなたを助けるための種が埋め込まれています。
それはあなたが選んできたわけではなく、あなたという魂が今生で受け取ると決めてきた、見えないところからの贈り物のようなものです。
受け取り方は、これからゆっくり決めていけば大丈夫です。
急がなくていいですし、無理に「感謝しなさい」と自分に強いる必要もありません。
いつかきっと、あの出来事があったからこそ今の自分があるのだと、しずかに頷ける日が訪れます。
その日まで、どうかご自分の歩みを途中でやめないでいてください。
あなたの中にもう蒔かれている種が、ちゃんと芽吹いてくれる時を、私は信じています。
苦しみの中に隠された幸福の種という視点は、幸福完全ガイドの章にもまとめています。
苦しみそのものの意味を知りたくなったら、生きづらさ完全ガイドも開いてみてください。
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