降りてきたメッセージです
私たち人間の人生を見ていると、一見たいへん非効率な生き方をしていると感じられることがあります
本来、永遠であり、食べるものも着る物も住む場所も必要としない魂が本質である私たちは、なに不自由なく本来の世界で、光の世界で暮らしていました
それが何ゆえか、幼き肉体に宿り、自らの力では立つことも、食事を取ることも出来ない非力な存在として生まれ
そして過去で学んで経験した様々な知識や英知を忘れ去り、またゼロから人生を歩みだすのです
無神論者は言うでしょう。「このような非効率なあり方は到底信じられぬ」と、「世の中を見渡しても不合理なことが多いではないか、それは偶然によって世の中が、そして人間が生まれ合わせた証拠ではないか」
もともと大人としての意識がありながら、何ゆえにまたゼロから生まれてくるのか、そんなことは信じられない、とうてい納得が行かないと思う人もいるでしょう
ですがそうした一見すると無駄のような経験の中にも、非効率と思われる出来事の中にも、神の思いは反映されているのです
それはすべての存在を育もうとする神の愛、無限の慈悲でもあるのです
もしも効率ばかりを考えるのなら、完全なる神は、完全なままとしてそのままで存在していればよかったでしょう
何ゆえに有限なる人間を生み出し、その成長を見守っているかと言えば、人々を愛し、その愛ゆえに人々が生き、そして成長する様を喜びとなされているからです
私たちは本来、なに不自由なく光の中で暮らしてきた魂であったのですが、それが暗く冷たいこの世に肉体を持って生まれ合わせることで、光ではないもの、それはつまり私たちの本質ではないものを体験します
それは闇であったり、悲しみや、苦痛や、裏切りや、失望であったりします
光での記憶を消して生まれることで、この世で光でないものを体験し、そして本来の世界に帰っていくことで、どれだけ自らの在り方がありがたいものであるかが実感できるのです
このような経験や出来事も、効率の面から見るなら、無駄の多いあり方だと思えるでしょう
人は自らの本質である魂のあり方を知らないために、様々な過ちを犯したり、くいの残る生き方をすることがあります
ですが、そのような体験をして、それでもなお生かされ、次に新たに生まれかわれるのは、そこには神の愛が存在を支えているからなのです
過ちを犯しやすい人間という存在は、自由を与えられているがゆえに迷い、そして傷つき、後悔することもあります
ですが過ちを悔い改め、もう一度、いえ何度も何度も生まれ変わっては、やり直しの機会を与えられているのです
それこそ真の愛でなくて何でしょうか
大いなる愛に支えられているからこそ、過ちの多い私たちは生かされているのです
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