なぜなら、歴史を振り返れば、国が国民に強いた「努力」が、全くの無駄骨、あるいは悲劇に終わった例が山ほどあるからです。
コロナ禍で感じた「見えない強制」
つい最近のコロナ禍を思い出してください。
マスクをしないだけで白い目で見られ、ワクチンを打たない人は「非国民」であるかのような空気が社会を覆いました。
政府は「強制ではない」と言いながらも、行動制限や自粛要請で私たちの生活を縛り、ワクチン接種を半ば当たり前のように進めました。
しかし、あれだけの我慢と努力の結果、本当に感染防止に効果があったでしょうか?
いまだに流行を繰り返し、マスクの着用やワクチン接種に関係なく、感染が広がっている様子を見ると、当時の圧は無意味だったことがわかります。
戦時中の「無駄な努力」も酷かった
これは、戦時中の日本が辿った道と驚くほど似ています。
当時の指導者たちは、科学的根拠のない精神論を振りかざし、国民に無意味な努力を強制しました。
一つ目は、竹のやりで戦う訓練です。
国民は、先の尖った竹のやりを持って、敵の兵隊や飛行機を突く練習をさせられました。
しかし、これは全くの無駄でした。
なぜなら、アメリカのB29という飛行機は、やりが絶対に届かない遥か空の上を飛んで爆弾を落としていたからです。
マシンガンなどの強力な武器を持つ兵隊相手に、竹のやりでは歯が立たないのは当たり前のことでした。
二つ目は、金属の供出です。
これは、飛行機や武器を作るための鉄や銅が足りないからと、国民から金属製品を無理やり集める命令でした。
お寺の大きな鐘や、家で使う鍋や釜、さらには子どものおもちゃまで取り上げられました。
しかし、これもほとんどが無駄に終わりました。
なぜなら、色々な場所から集めた金属は品質がバラバラで、実際に武器を作るための材料としては使い物にならないものが多かったからです。
国民が大切なものを手放して協力したにもかかわらず、その努力は報われませんでした。
三つ目は、松の根から油を採ることです。
戦争の終わりごろ、飛行機を飛ばすための燃料がなくなったため、国は「松の木の根っこから油を採れ」と命令しました。
多くの子どもたちまで学校に行かずに山へ行き、一日中かけて固い地面を掘って松の根を集める作業をさせられました。
しかし、この努力も全く割に合いませんでした。
なぜなら、途方もない時間と労力をかけても、採れる油の量はほんのわずかだったからです。
大勢で頑張っても、飛行機一機を少し飛ばすほどの燃料も作れず、これも無駄な努力に終わりました。
これらの馬鹿げた政策に少しでも疑問を口にすれば、「非国民」と罵られ、社会からつまはじきにされました。
まるでコロナ禍のワクチン未接種者や、マスクをしない者への風当たりの強さと同じです。
国民は「お国のため」という言葉を信じ、疑うことをやめ、無駄な努力に命と生活をすり減らしていったのです。
緊急事態条項が「現代の竹槍訓練」を強制する
そして今、議論されているのが「緊急事態条項」です。
これは、政府が「大変だ!」と判断すれば、国会の話し合いを省略して、国民の自由を奪い、財産を取り上げることさえ可能にする、とても強力な権限です。
もしコロナ禍でこの条項があれば、ワクチン接種は「国民の義務」として強制され、拒否すれば罰金が科せられていたかもしれません。
これはまさに、戦時中に竹槍訓練や金属供出を強制されたのと同じ構図です。
結論:権力集中は、悲劇を拡大させるだけ
結局のところ、歴史が私たちに突きつけている教訓は、極めて明確です。
政府に権力を集中させても、現場を知らない指導者が下す判断は、現実からかけ離れています。
そして、その間違った判断が「国家のため」という大義名分のもとで国民に強要されるとき、それは問題解決どころか、かえって悲劇を拡大させるだけなのです。
竹槍でB29に立ち向かえと命じた司令官は、現実的な兵器性能の差を見ません。
一律の行動制限を指示した政治家は、日々の経営に喘ぐ小さな店の苦しみを知りません。
本当に必要なのは、強力な権力で上から押さえつけることではなく、もっと現場の声を尊重する「現場主義」の考え方です。
緊急事態条項でも想定される大規模災害にしても、政府の支援は現場を知らず、無駄や非効率が目立ちます。
上に権力を集中するよりも、もっと現場に権限をおろし、判断を任せたほうがいいのです。
本当に危機を乗り越える力は、現場の一人ひとりの知恵と判断の中にこそあります。
緊急事態条項は、この「現場主義」とは真逆の発想です。
現場の多様な声を封じ込め、中央の画一的な判断を絶対的なものにしてしまいます。
私たちは、一部の指導者の誤った強要によって再び悲劇を繰り返す道を選ぶべきではありません。
現場の知恵を信じ、一人ひとりの自由と判断が尊重される社会こそ、真の危機を乗り越える力を持つのではないでしょうか。