自我(エゴ)とは何か?〜 魂が奏でる、分離と統合の物語 〜
自我(エゴ)。
それは、私たちが「個」としての旅を始めるために自ら背負った、切なくも愛おしい「約束」なのかもしれません。
遥か彼方の記憶を辿れば、私たちの魂はかつて、大いなる源(ソース)という光の海の一部でした。そこは境界線のない、完全なる調和と絶対的な愛の世界。
しかし、私たちはその暖かな揺りかごを離れ、広大な宇宙へと「個」の光の粒として旅立つことを選びました。
「自分」以外の何かが存在する世界を知りたい。
その純粋な好奇心とともに、根源からの光がプリズムを通ったかのように分離したとき、私たちは初めて「孤独」を知り、「私」と「あなた」という二元性のドラマの幕を開けたのです。
私たちは、波長の重たいこの物質世界へと舞い降り、肉体という「衣」を纏いました。
その瞬間、かつて一つであった記憶には静かにヴェールがかけられました。
そうして生まれたのが「自我(エゴ)」です。
エゴとは、この過酷な地上でか弱い肉体を守るために、魂が精巧に創り上げた「鎧(よろい)」です。
それは自己保存という本能と結びつき、私たちを傷や危険から守るための、強固な盾となってくれました。
しかし、ここには宇宙の深遠なパラドックス(逆説)が隠されています。
私たちを守るはずのその鎧は、いつしか魂にとって重すぎる枷(かせ)となり、本来の自由な翼を封じ込めてしまうのです。
まるで、美しい蝶になる日を夢見て、硬い殻の中でじっと耐えるさなぎのように。
あるいは、カニが自身の身を守るために背負った甲羅が、成長とともに窮屈になっていくように。
私たちは、自分を守るために作り出したエゴによって、今度は自分自身を不自由にしてしまうのです。
けれど、どうか忘れないでください。
この「不自由さ」や「重み」こそが、魂を鍛え上げる至高のギフトであることを。
宇宙飛行士が無重力の空間では筋肉を失うように、何の抵抗もない世界では、魂もまた強さを育むことができません。
地上で重力に逆らって立つことで筋力がつくように、魂もまた、エゴという制約や、思い通りにならない現実という負荷があるからこそ、磨かれ、輝きを増していくのです。
エゴは、私たちを鍛えるための厳しくも慈悲深いトレーナーであり、この物質世界を体験するための乗り物です。
私たちは、その重みを感じることで初めて、「軽やかさ」の尊さを知り、分離の痛みを味わうことで、「愛」の深さを学ぶことができるのです。
エゴは私たちに囁きます。
「お前は孤独だ」「他者は競争相手だ」と。
しかし、静寂の中で心の眼(まなこ)を開けば、真実が見えてきます。
自我による分離の世界は、魂が成長のために作り出した壮大な幻影(イリュージョン)に過ぎません。
真実は、私たちは一度たりとも離れ離れになったことなどないのです。
私たちは皆、見えざる光のへその緒で結ばれた、大いなる一つの命。
すべての他者は、形を変えた「もう一人の私」であり、魂の兄弟姉妹なのです。
だからこそ、人を愛し、慈しむことは、道徳的な義務を超えた、魂の帰郷(ホームカミング)なのです。
誰かに優しくすることは、根源において繋がっている自分自身を癒やすこと。
他者の痛みを理解することは、宇宙の鼓動を共有することです。
もし私たちがバラバラの存在なら、愛など必要ないかもしれません。
しかし、私たちは同根の光であるがゆえに、互いに惹かれ合い、愛し合わずにはいられないのです。
いつか私たちが、役目を終えたエゴという鎧を脱ぎ捨てたとき。
そこには、鍛え抜かれた強く優しい魂と、すべてと溶け合う至福の光が待っていることでしょう。