2021年11月30日火曜日

鬼が人を取り込むやり方 鬼滅の刃と鬼束ちひろ


昨日は歌手の鬼束ちひろさんが救急車を蹴って傷つけたとして、逮捕された事件について書きました

霊的にはあまりよろしくない影響もあったのではないかというものです

そして最近流行した「鬼滅の刃」というアニメとも共通するようなテーマがあって、人が闇側の鬼に取り込まれてしまうところが感じられます

光の存在は、私たちを善導しようとしていますが、闇側の存在は、私たちを闇に落とし、引きずり込もうとします

鬼には人々を厳しく指導するような善なる存在もいますが、時には闇に潜む者たちもいます

鬼滅の刃ブームの時にも、こうした映画を通して、闇とつながり、道が出来てしまうということを警告したことがあります

鬼束ちひろさんの歌で最初にヒットした作品に「月光」があります

その歌には以下のような歌いだしの歌詞があります

lam GOD'S CHILD (私は神の子供)
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?
(こんな場所でどうやって生きろと言うの?)
こんなもののために生まれたんじゃない。

これは一面、真理を含んでいるように見えて、すり替えというか、とらえ方で闇に推してしまう部分があると思います

悲惨な自分の在り方に対して、自分のせいではない、世の中が悪かったのだ、世界が間違っているという被害者意識が潜んでいるように感じられます

自分を正当化して、世の中が闇のように見てしまうのは、実は自分自身が闇に染まっていってしまっているために、そう見えてしまうことがあります

周囲の人たちが悪い者たちばかりに見えている時には、本人の心境そのものが悪くなっている時です

人間は自分の心というものを反映して、世界を見ていますので、世の中が闇に染まって見えている時には、自身の心が闇に染まってしまっている時でもあります

こうした「自分は悪くない、世の中が間違っているのだ」という思いは、闇に落ちやすくなります

そして「鬼滅の刃」というアニメが流行していますが、この作品にも、鬼となってしまった側の、悲惨な過去や、やむを得ないような事情などが描かれています

鬼には、鬼になるだけの理由があるのだということで、見ている人は闇の鬼に同情するような気持に持っていかれます

悲惨な姿を見せて、人々の同情を誘い、悪いのは世の中だとか、不幸の原因を他に向けさせようとします

自己責任を持ちたくない人が、こうした発想に惹かれやすいでしょうし、それは闇に取り込まれる要因にもなります

闇に取り込まれないようにするためには、責任転嫁をやめて、自分の闇と対峙することです

心の中に潜んだ問題にふたをするのではなく、しっかりと対峙して、改める心が必要です

周りのせいや、他人のせいにばかりしていては、いつしか闇に飲み込まれてしまいます

闇は姿を隠せるように、自分の罪も隠せるからです

光にさらされると、自らの罪や負い目を自覚しなくてはならず、苦しいために闇に隠れようとします

それが闇に取り込まれる道なのです

自らの心を点検し、誤った思いを素直に謝罪し、正していけるようになりましょう

それこそが光への道となります

16 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

昨日の記事にコメントした者です(2番目のコメントです。鬼束ちひろさんがペット虐待死させた話をしたのはラジオではなくテレビ番組の中だと書き込んだ後に気づきました)。

鬼束ちひろさんのデビュー曲は、綺麗な感じで歌唱力や表現力も上手いと思うのですが、反面、闇のようなものを当初から何となく感じていました。あの印象的なフレーズは闇に引きずり込まれるものなのですね。
残念ながら、今の自分もその歌詞の通りに思って生きているのですが、闇に染まらないよう苦戦しているところです。闇から光へ行くことは頭で思っているより難しいですが、鬼束さんもどうか、闇から抜け出して欲しいです。ハムスターを死なせたことも心から反省して欲しいです。

鬼滅の刃は、私は好きではありませんが(全く興味がないので、特に嫌いでもありませんが)、母と妹が漫画やアニメを見ていて、気のせいかそれを見た頃あたりから、鬼みたいな人格にますますなった気がします。モラハラやパワハラ、暴言暴力を振るってきたことがありました。

それと、昨日今日の記事でふと疑問に思ったことが2つあります。

1つは、鬼束さんなど名字に「鬼」など良くない言葉や漢字が入っていることは、霊的にも悪いことなのでしょうか?住所に「悪」の入った地域もあります。もし、悪いことと関係がないのであれば、名字とその人の悪行で、その名字を悪く言うのは差別や偏見ではないかと思いました。(関係があっても悪く言うべきではないが)

2つ目は、今はやっている曲の一つに「うっせぇわ」(Ado)というのがありますが、言葉遣いが悪く、歌詞も文句や愚痴や悪口で、ほんの少し耳にしただけでも不愉快なのですが、こういう歌もやはり良くないものでしょうか?鬼滅の刃が今、流行っている背景と共通している気がしないでもありません。

匿名 さんのコメント...

若かりし学生の頃、学園祭の発表で鬼束ちひろさんの「月光」を歌いました。
一生懸命練習してとても思い入れのある曲だったのですが、ただ一つちょっと思っていたのは「世の中おかしいこともヤなことも多いけど『腐敗した』までは言い過ぎちゃうんかな〜」ということでした。笑ってしまうような幼い感想ですが(笑

思春期の若者たちが共感してしまいやすいのは、まだ自分だけの力ではうまく思ったように生きられなくて、抑圧されていたり悪意による妨げに遭っているような気持ちになってしまうからなんですよね。思春期には、そうした憤りのような気持ちと繋がるものを好んで読んだり聴いたりする人もきっと多いでしょう。

それを卒業してゆけるかどうか、もしくは好きなままでいたとしても正しく本質を俯瞰できるかどうか。
それがきちんと真っ直ぐに世の中と向き合える大人になったかどうかの境目なのかもしれませんね。

そういう意味では、エヴァンゲリオンという作品は正しく進化を遂げて有終の美を飾ったと思います。
旧劇場版までは主人公のシンジくんが「みんなもっと僕に優しくしてよ!」と絶望から叫んでいましたけども、
新劇場版を新たに再構築して最終作では「なんでみんなこんなに僕に優しいんだ」と周りへの返しきれない感謝を噛み締めるような台詞に変化していました。彼を取り巻く状況が悲惨極まりないのは変わらないのに、です。
その進化を万感の思いを以って見守ったファンも多いと思います。
…そこからたどり着くまで、この作品もだいぶ長い時を必要と必要としたみたいですが、、

人が成長するというのはものすごく大変なことで、真っ直ぐ立つことが如何に難しいか。
人のせいにしないで自分が今すべきことを素直に見つめられるか。

世の中の色んなものに触れて、つらつらと考える次第です。

匿名 さんのコメント...

なるほど〜
簡単に言うと、自己責任を取りたくない人が鬼に同通しやすいのですね。
鬼滅の刃は見ていませんでしたが、他人事ではないな〜と思いました。

スクール生3年目の私は、月光の歌詞にこのようにアンサーしたいと思います。

lam GOD'S CHILD (私は神の子供)→全ての魂は神の子供
この腐敗した世界に堕とされた→まだ闇のある星・地球に生まれた
How do I live on such a field?(こんな場所でどうやって生きろと言うの?)→そんな地球で生きる事は辛く悲しいこともあるが
こんなもののために生まれたんじゃない。→それを糧に魂を磨くことに、生まれた意味がある

匿名 さんのコメント...

この歌好きで聴いてました。
とことん落ちこみそうになる歌ですが、
もう底がなくて上がるしかない状況のように。
こんな世界に生まれたが絶望から立ち上がれと
後押ししてくれるように捉えてました。

自分の心境で真逆の解釈になるものですね。

匿名 さんのコメント...

こんにちは。今回、初めてコメントします。
作品はテレビアニメ、映画と映像化されたものは全て鑑賞し、原作も友人の家にお邪魔した時にあったものをざっと読んでいます。
私は鬼達の過去の不条理な体験には同情はするけれど、共感して感情移入することはありませんでした。
誰もが今生で配られたカードを受け入れて、試練をくぐり抜け、人生を切り開いて生きていくもので、闇に落ちた言い訳にしてはいけないと思っているからです。

昨年秋から話題になった映画はご覧になったことはあるでしょうか?他のエピソードとは違い、鬼に同情させるシーンはいっさいありません。むしろ、善(主人公サイド)と悪(鬼サイド)の戦いがはっきり描かれていて、主人公サイドが不条理を克服していくエピソードとなっています。
ただ、物語の終盤で主人公が卑怯な鬼に対して涙を流して罵倒するシーンがあり、主人公サイドに共感する声と、鬼を擁護する声の両方があるようです。
「あの鬼の過去はとても悲しくて原作を読んだら号泣した。比較的恵まれた環境に生まれた主人公サイドがあの鬼の境遇に生まれていれば同じ道を歩んだ」というのが擁護派の意見です。
私は、その鬼の過去話に関しては、人生の何度かの節目で自分の意思で軌道修正しないまま来てしまったために、最大の試練が来たときに間違った行動をし、結果、鬼を呼び寄せたと感じていました。

人気作品ですので、今後、どんどん原作の続編が映像化され、主人公サイドと鬼サイドの壮絶な戦いが繰り広げられると思いますが、「主人公サイドに感情移入するか」と「鬼サイドに感情移入するか」の戦いになるのかな?作者もそこを狙って描いたのかな?と思いました。

匿名 さんのコメント...

子供の頃、「月光」なんとなく怖くて聞けませんでした…。

匿名 さんのコメント...

>鬼束さんなど名字に「鬼」など良くない言葉や漢字が入っていることは、霊的にも悪いことなのでしょうか?

横から失礼致します。少し私見を述べさせてください。

先生のこれまでの記事から想像するに
「鬼」などの良くない言葉や漢字が名字入っている事は、霊的に悪いことというよりも、その人の魂の流れを単に表していると言えると思います。
羽生結弦さんの記事でも、名前と過去世のご関連がありそうと書かれています。
(スクールの鬼束ちひろさんの記事でも、お名前と鬼の関係はちらっと触れられています。)
川などでも「鬼」や「荒」という漢字が入った川は、現代でも災害に繋がっていることがよくあり、そういった所は地価が低いです。
その川が、昔から荒く、氾濫していたことを示していると思います。
そのように「名」は、その人を表す記号のようなものであると思います。
ですので鬼束ちひろさんご自身、またご家系がそういったものと縁があった可能性はあると思います。

ですが、全ての魂には神の光が流れており、神へと向かう道が示されています。
鬼束さんも例に漏れません。
ご自身の魂の修行で、鬼という言葉がいつの日か、「改心し光へと向かった存在」を意味する言葉と変わっていくかもしれません^^

Unknown さんのコメント...

月光は旧約的世界観、すなわち楽園追放と神との不和、魂の孤独と放浪といったパラダイムに裏打ちされている。たしかに世界そのものが腐敗しているという感覚は、世界そのものを知り尽くしているという傲慢な前提に立つもので、十代の少女だった鬼塚がうたうのはまだしも、いい年した大人は疑問に思っても不思議ではないだろう。どう生きればいいのかという指針に明るい結論をだせないのがキリスト教の弱点である。ダンテも地獄に落ちた人々、罪の分析には卓抜の観察を見せるが、反面ではどうして生きていけばいいのかという点については新たなパースペクティブを与えたとは言い難い。そうでなければ、天国篇で神と出逢ってハイおしまい、という結末にはならなかったであろう。天国から帰還し、地上で生きなおすところまで描けたはずである(古今東西の英雄物語は、彼岸の旅からかならず次世代を開くギフトを持ち帰ってくる)。この点、旧約的世界観に生きる「月光」になんらの救いがない点と整合する。私見では、新たな生を発見したのはむしろアッシジの聖フランチェスコの方であった(ラテン語ではなくイタリア俗語で詩を書いたのもダンテに先んじている)。また、騎士道は新約聖書的、イエス的生き方を社会に合うように変形したもので、やはり現代にいたるまで西洋人の倫理規範として生き続けている。しかしダンテは有徳の騎士も地獄に置いていることから、旧約的世界観のある種の宿命的な限界、建設的な人生からの逃避が一貫していることがわかる。

匿名 さんのコメント...

そういえばふと思い出したのですけど
トリックのドラマ(鬼束ちひろさんの月光が主題歌)が流行っていたのが私が小学校5、6年の時だったのですが
そのドラマが好きな男子たちのグループがいて
わりと真面目というか、あまり目立たないタイプの子達の集まりだったのですが
その頃からふざけて、気味の悪い漢字を並べて書くようになったのですよね。
卒業文集で自分の名前を山田→夜魔堕とか書き換えるとか、そういう感じで。

大人しくていい子のイメージがあったのに、突然どうしちゃったのかなと思っていたのですが
鬼の影響があったのかなぁと思いました。

匿名 さんのコメント...

この世界って、光がある所には必ず影がある。光と影で一対を成してるかのよう。
今回のコロナ騒動を見ていると、やっぱり世界は腐敗気味だと感じる。まず、WHOのテドロスが辞任してないあたり、どうゆう事かな〜、と思うし。今の脱炭素を必要以上に煽っている偽善的な投資家も腐敗臭しますよ。しませんか?😅

匿名 さんのコメント...

自分の母方の先祖(ほぼ言い伝え)には名前に「鬼」の部首が入っていますが、ネットで調べたら陰陽師的な区分をされてました。職業柄?鬼と関りがあってのことで、そういう苗字とかあるのかなと思いました。

りある さんのコメント...

初期の『月光』は厭世的な歌ですが、数年が経ち、『VENUS』『火の鳥』のような美しい曲も作っておりました。私生活が不安定なのは相変わらずですが。。人のせいにする心は律していかないといけませんね。

まい さんのコメント...

幼少期ドラマトリックは怖くて見れませんでした。歌との関連もあるのかもしれないですね

匿名 さんのコメント...

 『幽遊白書』というまんがの敵側の、樹というキャラクターの、「オレは彼が傷つき汚れ堕ちていく様をただ見ていたかった。」という台詞を、理解不能であると思っていました。
 洪先生の文章を拝読しまして、闇側に迷わずに、善導する光の存在側へ進むことが大事であると学ばせていただきました。

ゆどうふ さんのコメント...

鬼束さんは名前に「鬼」がついていたから転落の原因になったというより、
歌手として有名人になって以降、その苗字から受けるなんだか怖いイメージを、
ファンをはじめ多くの人達が勝手に拡大解釈してしまったために、
本人もその変な想念を受け取ってしまったのか、
あるいはみんなが抱いてるそんなイメージに応えようとしたのかで、
振り回されていったことが、奇行を繰り返す状態から抜け出せなくなった原因のような気もします。
(歌から受ける怖さが、苗字の怖さによって、余計に増幅されてしまったような感じ。)

同じくメンタルに危うさがあった歌手としてCoccoさんがいて、
Coccoさんのかつての歌詞世界のネガティブさは鬼束さん以上で、
やはり不特定多数の方から強烈に怖いイメージを抱かれていましたが、
そんな彼女は年齢を重ねるにつれて精神的にもだいぶ安定していき、
今現在は自身のアパレルブランドを立ち上げるなど、「光」を感じさせるような活動をされています。

そんなCoccoさんと彼女とを比べると、
やはり鬼束さんは自分が注目される事ばかり考えているように映るし、
芸能界といった華やかでスポットライトの当たる世界で生きて行こうとするなどの、
「欲」「エゴ」にまみれているような感じがします。

強烈な「心の闇」を持つことになったのはやむを得ないとしても、そこから
愛を与えることができるようになったか、
それとも奪う愛のままでいたのか、
この辺が二人の差を分けた大きな要因のような気がします。

じょん さんのコメント...

>How do I live on such a field?
>(こんな場所でどうやって生きろと言うの?)
>こんなもののために生まれたんじゃない

死んでいったペット達こそ、そう言いたい所だったでしょうね。

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