2026年1月13日火曜日

魂の彷徨、そして帰還。――唯物論サラリーマンが体験した死後のリアル。【実録風物語】

「おい、いい加減に起きろよ!」

俺は必死に叫んでいた。

目の前には、満員電車で疲れ切った顔をして座り込んでいる「俺」がいるからだ。

いや、正確には「俺の肉体」だ。

通勤途中の心臓発作。

あっけない幕切れだった。

享年五十二。

中小企業の営業部長。

妻と娘が一人。

「死んだら無になる」

「魂なんてものは脳が見せる幻覚だ」

そう信じて生きてきた俺にとって、今のこの状況はパニック以外の何物でもなかった。

俺はここにいる。

意識もしっかりある。

手足もある。

スーツも着ている。

なのに、救急隊員は俺の身体を担架に乗せて運び出し、野次馬たちは俺の身体を通り抜けていく。

「ふざけるな! 俺は生きてるぞ!」

俺は叫び続けた。

しかし、誰も振り向かない。

世界は急に、薄いグレーのフィルターがかかったように色あせて見えた。

俺は、自分が死んだことを認められなかった。

ただの悪い夢だ。

そう思い込もうとして、俺はいつものように新橋の繁華街へと足を向けた。


■ 満たされない渇き

夜の街は、いつも通り賑やかだった。

赤提灯の明かり。

焼き鳥の焼ける匂い。

俺は馴染みの居酒屋の暖簾をくぐった。

「大将、熱燗とつくね!」

そう注文して、いつものカウンター席に座ろうとした。

その時だった。

見知らぬ客が、俺の上にどさりと座ってきたのだ。

「うわっ!」

俺は飛びのいた。

いや、正確には、その男は俺の体を「すり抜けて」座ったのだ。

「なんだよ、これ……」

カウンターには、他の客が頼んだビールが置かれている。

喉が焼けるほど渇いていた。

俺は震える手でジョッキを掴もうとした。

スカッ。

手はガラスをすり抜け、何も掴めない。

何度やっても同じだった。

目の前に酒があるのに飲めない。

匂いはするのに味わえない。

その時、俺の背後で低い笑い声がした。

「おい、新入り。やり方が違うぜ」


■ 悪魔の囁き

振り返ると、薄汚れた作業着を着た男が立っていた。

顔色は土気色で、目が異様にぎらついている。

生きている人間ではないことは直感で分かった。

「酒が飲みたいんだろ?」

男はニタニタと笑いながら俺に近づいてきた。

「いいか、自分じゃ飲めねえんだ。あいつらを使うんだよ」

男は、カウンターで泥酔しているサラリーマンを指差した。

「あいつの背中から入り込むんだ。波長を合わせるんだよ。『飲みたい、飲みたい』って強く念じて、あいつの神経に覆いかぶさるんだ」

俺は躊躇した。

だが、喉の渇きと、死の恐怖を紛らわせたい欲求が勝った。

俺は教えられた通り、泥酔した男の背後に立ち、その体に自分の体を重ね合わせた。

「うっ……」

生温かい、湿った感覚。

他人の汗と欲望の匂いが混じったような不快感。

しかし、その男がビールを喉に流し込んだ瞬間。

俺の喉にも、確かなビールの刺激と冷たさが伝わってきたのだ。

「飲めた……! 俺は飲めるぞ!」

俺は歓喜した。

だが、それも束の間だった。

その男の心の中にある、ドロドロとした鬱屈、上司への殺意に近い憎しみ、家庭への不満が、汚水のように俺の中に流れ込んできたのだ。

「うわあぁぁッ!」

俺はたまらず、その男から飛び出した。

「ははは! 最初はそんなもんだ。慣れれば快楽だけ吸い取れるようになるさ」

さっきの男が笑っていた。

周りを見渡すと、他にも何体もの薄汚れた霊たちが、生きている人間にへばりつき、精気をすすっているのが見えた。

まるで寄生虫だ。

俺は吐き気を催した。

「俺は……俺はこんな浅ましい化け物にはなりたくない!」

俺は店を飛び出した。

「逃げるのか? ここ以外に、お前の行く場所なんてないんだぞ!」

男の嘲笑を背に、俺は夜の闇の中をがむしゃらに走った。


■ 荒野の彷徨(ほうこう)

どれくらい走っただろうか。

気がつくと、俺は見たこともない場所にいた。

そこは、新橋でも東京でもなかった。

ごつごつした岩肌がむき出しになった荒野。

空はどんよりとした鉛色で、太陽も月も見当たらない。

寒風が吹き荒れ、肌を刺すような冷たさだ。

「ここはどこだ……」

人は誰もいない。

あるのは静寂と、どこまでも続く岩場だけ。

俺は歩いた。

来る日も来る日も歩いた。

腹は減らないが、心細さと寒さが身に染みる。

これが死後の世界なのか?

俺が生前、部下を怒鳴り散らし、ライバルを蹴落とし、金と数字だけを追い求めてきた結果がこれなのか?

「誰か……誰かいないのか!」

叫んでも、返ってくるのは自分の声の反響だけ。

俺は岩陰にうずくまり、膝を抱えた。

孤独。

圧倒的な孤独。

生きている時は、地位や肩書きが俺を守ってくれていた。

だが、ここでは俺はただの「惨めな魂」に過ぎなかった。

俺の心に、ふと、妻の顔が浮かんだ。

いつも仕事ばかりで、ろくに話も聞かなかった妻。

娘の授業参観にも行ったことがなかった。

「すまなかった……」

涙がこぼれた。

俺は、自分がどれほど傲慢で、利己的な人間だったかを思い知らされた。

金も名誉も、ここには何一つ持ってこれなかった。

俺に残されたのは、この寒々しい心だけだったのだ。

「神様……もしいるなら、助けてくれ」

「俺は間違っていた。もう一度、やり直させてくれ……」

唯物論者だった俺が、初めて心の底から祈った瞬間だった。


■ 救いの光

「やっと気づきましたか」

頭上から、鈴を転がすような優しい声が聞こえた。

顔を上げると、鉛色の空の一角が破れ、そこから一筋の黄金色の光が差し込んでいた。

その光の中に、ひとりの男性が立っていた。

白いローブをまとい、顔は光り輝いていてよく見えないが、なぜか懐かしい、温かい感じがする。

「あなたは……?」

「私はずっとあなたを見ていました。あなたが自分の力で、その欲望の泥沼から抜け出し、心を開くのを待っていたのです」

彼は地上に降り立ち、俺に手を差し伸べた。

「さあ、行きましょう。ここはもう、あなたのいる場所ではありません」

俺がその手を取った瞬間。

体が羽のように軽くなった。

あの重苦しい岩場が、みるみる遠ざかっていく。

寒さが消え、春の日差しのような温もりが俺を包み込んだ。


■ 魂の故郷へ

霧が晴れると、そこには信じられない光景が広がっていた。

鮮やかな緑の草原。

キラキラと輝く小川。

そして、色とりどりの花が咲き乱れる庭園。

「ここは……天国か?」

「ここは『霊界』。魂たちが休息し、学び、本来の姿に戻る場所です」

彼は微笑んで言った。

「ケンジ!」

向こうから、若い男が手を振って走ってくる。

「お前……死んだ親父か?」

三十年前に死んだ頑固親父が、俺の記憶にあるよりもずっと若く、三十代の頃の姿で立っていた。

「バカ野郎。ずいぶん遠回りしてきやがって。心配させやがって」

親父の目には涙が浮かんでいた。

その時、俺は理解した。

死は終わりではなかった。

そして、俺が彷徨っていたあの暗い荒野は、神が作った罰ではなく、俺自身の冷たい心が作り出した幻影だったのだと。

俺は今、心から思う。

生きているうちに、もっと愛を伝えればよかった。

もっと、人のために生きればよかった。

でも、遅くはないらしい。

ここからでも、地上の家族を見守り、償うことができるという。

俺の本当の人生は、ここから始まるのだ。


もし、これを読んでいるあんたが、俺みたいに「死んだら終わり」だと思っているなら。

あるいは、酒や欲に溺れているなら。

今のうちに考え直したほうがいい。

死んだ後に持っていけるのは、あんたの「心の在り方」だけなんだからな。

(完)

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人生の森で、道に迷っている、あなたへ。

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きっと、あなたの魂は、感動で震える。

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この一冊の物語の中で、あなたを待っています。

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