歌舞伎座の建替えと「歌舞伎稲荷の祟り」という噂について
読者の方からアンケートで、近年の歌舞伎座をめぐる出来事についてご質問をいただきました。歌舞伎座ビルの建替え工事がはじまって以降、不幸な出来事や不祥事が続いているという声があり、その背景に劇場脇にまつられていた歌舞伎稲荷の存在があるのではないか、と心を痛めている方が少なくないようです。
噂の中身はこうです。
かつて劇場の脇におまつりされていた歌舞伎稲荷の真上に、高層のタワービルが建つかたちになりました。
本来、神様のお社は建物の最上階におまつりすべきとされているため、その上に人の往来する空間が重なることで祟りが起きているのではないか、と語られているのです。
正直に伝えると、私はこの件について神様や霊的な存在から直接うかがったわけではありません。
ですから祟りがあったと断定することはできませんし、するべきでもないと考えています。
ただ、稲荷系の神様は、おまつりをやめてしまったり、礼儀を欠いたふるまいをしたりすると罰をあたえると古くから言い伝えられてきました。
歌舞伎座をめぐっても、そうしたすれ違いが何かしらあったのかもしれない、という程度には感じています。
この記事では、祟りの真偽を裁く代わりに、稲荷信仰とは何か、眷属としての狐は何を意味するのか、そして私たちが神様にどう向き合えば誤解なくつながれるのかを、いっしょに考えていきたいと思います。
稲荷信仰とは何か。日本人がもっとも身近にまつってきた神様
稲荷神社は、日本でもっとも数の多い神社といわれています。街角の小さな祠から伏見稲荷大社のような大社まで、その数は全国で三万社を超えるとも語られてきました。
もともと稲荷の神様は、稲が実ることを司る農耕の神でした。
稲荷という名も、稲が生るという言葉に由来するといわれます。
やがて時代が下るにつれて、商売繁盛、家内安全、芸事の上達など、人々の暮らしのあらゆる願いを受けとめる神様へと役割が広がっていきました。
歌舞伎座のような芸の世界に稲荷がまつられてきたのも、芸を磨き、舞台を成功へ導いてほしいという、演者たちの切実な祈りがあったからにほかなりません。
つまり歌舞伎稲荷は、長い年月のあいだ、その場所で働く人々の祈りと感謝を一身に受けとめてきた存在なのです。
それだけ深く生活に根づいた神様だからこそ、おまつりのしかたが変わったとき、人の心は不安に揺れます。
噂が広がる背景には、神様を粗末にしてしまったのではないかという、演者やファンの方々の良心がにじんでいるように私には思えます。
眷属としての狐は何者か。私が感じる宇宙からの来訪者
稲荷の神様といえば、多くの方が朱い鳥居とともに狐の姿を思い浮かべるでしょう。ここで誤解されやすいのですが、狐そのものが稲荷の神様なのではありません。
狐は神様の眷属、つまり神意を地上に伝え、人と神のあいだを取りもつ使いの存在として描かれてきました。
人間の目に見えない働きを担う存在を、昔の人々は身近な動物の姿になぞらえて理解しようとしたのです。
私はこの眷属について、もう少し踏み込んだ感覚をもっています。
狐の姿で表されてきた稲荷の眷属は、その源をたどれば、はるか昔に宇宙から飛来した霊的な存在だったのではないかと感じられるのです。
地球にやってきた知性ある霊体が、人々の祈りに応えるかたちで稲荷神社の眷属としてまつられ、長い時間をかけて狐という親しみやすい姿に重ねられていった。
そうした流れがあったのではないかと、私は考えています。
この点については私自身もまだ検証の途中であり、断定できる段階にはありません。
いずれ十分に確かめたうえで、あらためて書いてみたいと思っています。
ここで大切なのは、稲荷の眷属が動物の本能で動く存在ではなく、礼節を重んじる知性をもった霊的存在だという見方です。
知性ある相手だからこそ、こちらの心づかいが伝わり、こちらの無礼もまた伝わってしまうのです。
祟りという言葉の前に。神様への礼節をどう考えるか
祟りという言葉は、どうしても恐ろしい響きをもっています。けれども私は、稲荷の神様が気まぐれに人を罰する存在だとは考えていません。
祟りと呼ばれる現象の多くは、神様の側からの一方的な攻撃ではなく、人と神のあいだに生じた関係の断絶のあらわれだと感じます。
長年まつってきた存在を、工事や都合で粗末に扱ってしまう。
感謝の心も、ひとことの断りもないまま、その住まいの上に重い建物を重ねてしまう。
そうしたとき、神様と人とをつないでいた感謝の糸が細くなり、加護が届きにくくなる。
その状態が、結果として不運の連鎖のように見えることがあるのではないでしょうか。
旧約聖書の十戒の冒頭に、神を敬い、ほかのものをそれに代えてはならないという教えがあります。
宗教の違いを越えて、人が見えない大いなるものへ敬意を払うことの大切さは、古今東西で説かれ続けてきました。
茶道に「一期一会」という言葉があります。
一度きりの出会いを、二度とないものとして敬い尽くす心です。
神様や眷属との関わりも、これと同じだと私は思います。
そこにいてくださることを当たり前と思わず、来てくださったことに感謝する。
その姿勢こそが、祟りという言葉とは無縁の、おだやかな関係を育てていくのだと思います。
今日からできること。神社と心地よくつながるために
歌舞伎座の真相は私にもわかりません。ですが、この噂を入り口に、私たちが自分自身の神社との向き合い方を見直すことはできます。
一、近所の神社や祠に、感謝のためだけにお参りしてみる。願い事を伝える前に、いつも見守ってくださることへのお礼を先に伝えてみてください。
二、お参りのときは軽く一礼してから鳥居をくぐる。そこが神様の領域であることを、体の所作で思い出すための小さな習慣です。
三、家に神棚や小さなお札があるなら、ほこりを払い水を新しくする。まつりっぱなしにせず、日々手をかけることが何よりの礼節になります。
四、稲荷の祠を見かけたら、狐の像にも心の中で会釈する。眷属は人と神のあいだを取りもつ存在です。使いの者への敬意も、神様にきちんと届きます。
五、土地や建物に手を入れるときは、その場所の神様にひとこと心の中で断りを入れる。工事や引っ越しの前に感謝と挨拶を伝えるだけで、関係はずいぶん変わります。
六、不安な噂を耳にしても、恐れで広げず、敬意に変えて受けとる。祟りを怖がるより、敬う心を取り戻すきっかけにするほうが、はるかに健やかです。
神様への礼節とは、難しい作法を完璧にこなすことではありません。
そこにいてくださる見えない存在を思い出し、ありがとうと感じる。
その素朴な心の動きが、人と神のあいだに通う温かい道をつくります。
歌舞伎稲荷の噂は、私たちに恐れを教えるためにあるのではないと思います。
忙しさの中で忘れかけていた感謝と敬意を、もう一度思い出しなさいという、やさしい呼びかけなのかもしれません。
あなたが今日、ひとつの祠の前で手を合わせるとき、その小さな祈りは確かに届いています。
敬う心を持ち続けるかぎり、見えない存在はいつもあなたの魂の成長を見守り、静かに後押ししてくれるはずです。
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