前回、御祖神の啓示と日月神示、ホツマツタヱの三つが、地の底で一つの水源につながっていたという話を書きました。
その最後に、書ききれなかった符合がまだいくつもある、とお伝えしたのを覚えておられるでしょうか。
今日はそのうちの一つ、私自身が長く胸にひっかかっていた問いを開いてみたいと思います。
太陽の神は、はたして女神だったのか。
教科書が教えなかった「アマテル」
私たちが学校で習う天照大御神は、皇室の祖神であり、高天原を統べる太陽の女神です。
岩戸にこもり、世界を闇に沈めた、あの有名な物語の主役。
記紀神話のなかでは、まぎれもなく「女神」として描かれています。
ところが、ホツマツタヱを開くと、まるで違う顔が立ち上がってくるのです。
そこに記されているのは「アマテル」。
女神ではなく、男神として、はっきりと描かれています。
はじめてこの記述に触れたとき、私は少し背筋が伸びました。
太陽というのは、陰陽でいえば「陽」の極みです。
その陽の極致を司る存在が、本来は男性格であったとしても、霊的にはむしろ筋が通る。
そう感じたのを、今でも覚えています。
女神は、どこで生まれたのか
では、なぜ男神アマテルが、女神アマテラスへと姿を変えたのか。
ホツマを支持する人々が口をそろえて指さすのが、一人の巫女の存在です。
大日孁貴(おおひるめのむち)。
太陽の男神アマテルに仕え、その神意を地上に取り次いだ女性の祭司です。
神に仕える者が、長い歳月のなかで神そのものと重ねて語られていく。
そういう習合は、世界中の神話に起こってきました。
太陽の男神と、それを祀る巫女。
二つの像が時の流れのなかで溶け合い、やがて「太陽の女神」という一つの輪郭に塗り替えられていった。
ホツマの論者が描くのは、そんな書き換えの筋道です。
祀る者が、祀られる者にすり替わった。
ここに、政治の意図がなかったとは言いきれません。
「岩戸閉め」と、奇妙なほど重なる構図
この「すり替え」という言葉を胸に置いたまま、日月神示を開くと、私は息をのみました。
日月神示には「五度の岩戸閉め」という、独特の歴史観が説かれています。
神代から今日に至るまで、神々の世界では五度にわたって岩戸が閉ざされてきた、という考え方です。
岩戸隠れといえば、ふつうは天照大神があの岩戸にこもり、神々の知恵で再び引き出された、めでたい物語として語られます。
けれど日月神示は、そこにとんでもない一言を差しこんでくるのです。
岩戸から出てきたのは、騙して引き出された「偽りの神」である、と。
そして、真の神はまだ岩戸のなかにいらっしゃる、と明言します。
ここを読んだとき、私の頭のなかで、二つの線が一本につながりました。
ホツマが告げる「本来のアマテル(男神)が歴史のなかで隠され、女神アマテラスに書き換えられた」という筋。
日月神示が告げる「岩戸から出たのは偽りの神で、真の神はまだ内にいる」という筋。
別々の伝承から湧いたはずの二つが、同じ構図を描いている。
書き換えられたのは表向きの神であって、真の神はいまだ姿を隠したまま。
そう読むと、二つの古い言葉が、ぴたりと噛み合うのです。
隠されたものは、いつか開かれる
もちろん、これを学問的な定説として語るつもりはありません。
記紀は記紀で、千年を超えて受け継がれてきた重みがあります。
ホツマツタヱの成立年代をめぐっては、今も議論が続いています。
それでも、霊的な目で二つの伝承を並べたとき、そこに通う一本の流れは、私には無視できないものに映ります。
真の太陽神は、まだ岩戸の奥にいる。
日月神示はそれを、来たるべき「大岩戸開き」によって顕現すると説きます。
閉ざされたものは、いつか必ず開かれる。
隠されたものは、いつか必ず光のもとへ出てくる。
それは神話の昔話ではなく、いままさに動いている預言の構造なのだと、私は受け取っています。
御祖神の啓示も、ホツマツタヱも、日月神示も、こう囁いているように思うのです。
あなたが本物だと信じてきたものの、さらに奥に、まだ姿を見せていない本物がある。
その扉が開く時代に、私たちは立ち会おうとしている。
同じ構図を、私は何度も書いてきた
ここまで書いてきて、私は自分のなかで、いくつかの過去記事と線がつながるのを感じました。
これまでインスピレーションを受けて綴ってきた記事のなかに、まったく同じ骨組みを持つものが、すでに三つあったのです。
「本来の神が、歴史のどこかで消され、別の姿にすり替えられ、そして封じられた」。
アマテルとアマテラスの話は、その大きな流れの、一枚の絵にすぎなかったのかもしれません。
順に、ふり返ってみます。
創造神が、妖怪に姿を変えた話 天御祖神とダイダラボッチ
一つめは、天御祖神についての記事です。
天御祖神とダイダラボッチ——太古の巨神族と日本の創造神話の真実
ホツマツタヱには、天御祖神(アメミオヤ)という根源の創造神が描かれています。
混沌に「アオウエヰ」という響きを発し、宇宙そのものを生み出した神です。
ところが、この最重要の神が、記紀にはひとことも登場しません。
古事記の天御中主神も、日本書紀の国常立尊も、すでに生まれかけた宇宙のなかに現れる神であって、宇宙そのものを創った創造主ではないのです。
最も大きな神が、正式な歴史書からきれいに抜け落ちている。
私はこの記事で、あるインスピレーションを書きました。
アメミオヤとは、日本各地に伝わる巨人「ダイダラボッチ」のことではないか、と。
富士山を作り、その土を掘った跡が琵琶湖になり、低かった空を持ち上げた巨人。
かつて天地創造の神として真剣に仰がれていた存在が、時代が下るにつれて神話の表舞台から降ろされ、巨人の妖怪、あるいは「鬼」として語られるようになった。
崇められる神から、恐れられる妖怪へ。
ここにも、紛れもない「すり替え」があるのです。
そしてこの記事では、それが日本だけの話ではないことにも触れました。
ギリシャ神話では、オリンポスの神々の前に「タイタン」という巨神族がいて、戦いに敗れて奈落の底タルタロスに封じられました。
旧約聖書の創世記には、天から降りた「神の子ら」と人の娘から生まれた巨人「ネフィリム」が記されています。
ダイダラボッチとタイタンは、語感までよく似ています。おそらくもとは同じ名前だったのでしょう。
「巨人」「空から来た者」「神との戦いと封印」というテーマが、東西の神話を貫いて繰り返される。
これを偶然と片づけるのは、私にはむずかしいのです。
鬼門に押し込められた神 封じられた日本の古代神
二つめは、封じられた古代神についての記事です。
ここで私が驚いたのは、大本教に降りた神示との一致でした。
大本の開祖、出口なおのもとには、艮(うしとら)の金神と呼ばれる神が降りています。
その神示によれば、艮の金神は、地球の東北にあたる日本列島に押し込められ、しめ縄を張り巡らされて封じられたとされます。
そのとき投げつけられた言葉が、「煎豆に花が咲くまで出てくるな」。
煎った豆に花は咲きません。
つまり、永遠に出てくるな、という呪いです。
以後この神は鬼門に封じられ、国常立尊は「艮の金神」として恐れられ、忌み嫌われる存在になっていったとされます。
ここで私が書いたのは、丑寅という言葉のことでした。
艮は方位の東北を指し、丑寅とも書きます。
牛の角、虎柄の腰布。
私たちが思い浮かべる鬼の姿は、この丑寅から連想されたものだとも言われます。
丑寅に封じられた神が、いつしか「鬼」として語られるようになった。
そして記紀という歴史書は、もっと古い伝承から都合の悪い部分を削り、いまの形にまとめられたものではないか。
古代神の封印とは、歴史の書き換えそのものだったのではないか。
そう書いたのです。
このとき気づかされたのが、日月神示も大本も、源は同じ国常立尊につらなるという事実でした。
封じられた神が、別の口を通して、何度も同じことを告げている。
そんな感触がありました。
鬼を追い出し、福を招く 鬼とお多福の関係
三つめは、節分の本当の意味を書いた記事です。
ここでは、大分の湯布院に伝わる「鬼の九十九塚」の昔話を紹介しました。
その昔、塚原では人と鬼が仲良く暮らしていました。
土地は肥え、暮らしは豊かでした。
ところが鬼が乱暴を働くようになり、見かねた神々が「一夜で百の塚を作れたらこの土地をやろう」と持ちかけます。
鬼たちは凄まじい速さで塚を積み上げ、あと一つというところまで迫りました。
焦った神が鶏の鳴き真似をすると、村じゅうの鶏もつられて鳴き出します。
朝が来たと勘違いした鬼は、潔く負けを認め、村を去っていきました。
怪力を持ち、建築にすぐれ、やがて神の計略で追われていく種族。
この昔話には、古代に実際に起きた出来事の記憶が刻まれていると、私は受け取っています。
そして節分の「鬼は外、福は内」。
あれは、古代の鬼を封じ、お多福に象徴される新しい神を招き入れる行事なのだ、と書きました。
鬼は、人を善悪で裁く厳しい神でもあります。
新しい神は、ご利益を授けて人を惹きつけます。
裁く神から、福を与える神へ。
信仰のかたちが入れ替わっていったことが、豆をまくという小さな行事のなかに、いまも残されているのです。
三つの記事と、今日の話が一つにつながる
こうして並べてみると、四つの話が同じ一本の線で結ばれているのが見えてきます。
創造神アメミオヤは、ダイダラボッチや鬼に姿を変えられた。
国常立尊は、艮の金神として鬼門に封じられた。
古代の神々は、節分のたびに「外」へ追われている。
そして太陽の男神アマテルは、女神アマテラスに書き換えられた。
封じる、すり替える、忘れさせる。
手口は、どれもよく似ています。
本来そこにいたはずの古い神が、歴史のどこかで姿を消し、別の名と別の顔に塗り替えられていった。
日月神示が「岩戸から出たのは偽りの神」と告げるのも、この一連の流れの、いちばん奥にある芯のように思えるのです。
これらは、それぞれ別の折にインスピレーションを受けて書いた、別々の記事でした。
取材を重ねて組み立てたものではありません。
ある日ふと降りてきたものを、そのまま書き留めただけです。
それなのに、後から並べてみると、同じ一つの絵を、角度を変えて描いていたことになります。
私自身、書いている最中はそこまで見えていませんでした。
きっと、同じ源から少しずつ降ろされていたのだと、今は思います。
信じてきたものの、その奥へ
隠された真の神は、遠い空の岩戸だけにいるのではありません。
あなたが信じこみを一つほどき、心の岩戸を一枚開けるたびに、その光は少しずつ、もれ出してくるのだと思います。
太陽の神が男神だったのか女神だったのか。
その答えそのものより、「信じてきたものの奥に、まだ本物がある」と知っていることのほうが、これから大切になっていく気がしています。
書ききれなかった符合は、まだ残っています。
それは、また次の機会にお話ししますね。
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