親が子どもを虐待し、その幼い命が失われてしまう。そんな痛ましいニュースが、ときおり世の中を駆けめぐります。亡くなられたお子さんの気持ちを思うと、私はただ胸がふさがれるような心地になります。
どうしてこんなことが起きてしまうのか。なぜ防げなかったのか。多くの人がやりきれない思いを抱えながら、その問いを心のなかでくり返しているのではないでしょうか。私もまた、同じ気持ちで報道に向き合っています。
守る側の仕組みだけでは足りないこと
こうした事件が起きるたびに、児童相談所などの対応が取りざたされます。事前に子どもを保護できなかったのか、危険を見過ごしてしまったのではないか。そうした声があがります。実際に、虐待のおそれがある家庭へ子どもを戻してしまっていた、という経緯が明らかになることもあります。
痛ましい事態が続いたことを受けて、厚生労働省もようやく、子どもを守るために家庭へ踏み込む権限を強めていく方針を示したようです。けれども、これほどの犠牲が重ならなければ動き出さない。そのことに、私はやはり強いもどかしさを覚えます。子どもの命にかかわる問題であればこそ、もっと早く手を打てなかったのかと思わずにはいられません。
そして気になるのは、議論の多くが「子どもをいかに保護して守るか」という一方の側に偏りがちだということです。もちろん、子どもを安全な場所へ移すことは何よりも大切です。けれども私は、それと同時に、もう一方の側面にも目を向ける必要があると感じています。
加害の側にも向き合いを求めること
子どもを保護するだけでなく、虐待をした側の責任も、しっかりと問われるべきだと私は思います。児童虐待を防ぐための法律はありますが、行為の内容によっては、それ以外の罪に問われることもあるはずです。けれども現実には、重い怪我や命にかかわる結果にならなければ、そうした責任が問われにくいように見えます。
子どもが施設で守られるだけで、加害の側はそのまま、というのでは十分とはいえないでしょう。傷つけてしまった人にこそ、自分のしたことと深く向き合い、心から悔い改める機会が必要なのだと思います。ただ罰することが目的なのではありません。その人が自らの行いを見つめ直し、変わっていくきっかけを得ること。それがなければ、同じ悲しみがまた繰り返されてしまいかねません。
ですから、家庭へ介入する権限を強めるだけでなく、子どもを傷つける行為に対しては、より厳しく、そしてより広く責任が問われていくべきだと私は考えます。守ることと、向き合いを求めること。その両方がそろってはじめて、小さな命が本当に守られていくのではないでしょうか。
そして、これは決して行政や制度だけの仕事ではありません。私たち一人ひとりが、身のまわりにいつも以上に心を配り、もしかしてと感じることがあれば、ためらわずに通報する。声をあげることが、ひとつの命を救うことにつながります。誰もが少しずつ目を向け、手を差しのべていく。そうした優しいまなざしの積み重ねが、子どもたちを包む小さな盾になっていくのだと、私は信じています。
子どもをめぐる痛ましい問題は、家族・親子のカルマ完全ガイドに関連する記事をまとめました。
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