『ソフィアの森で見つけた幸せの鍵』試し読み

まえがき

人生の森で、道に迷っているあなたへ。 

もし今、周りのすべての光が消え、 一歩先さえも見えない暗闇の中で、独り震えているのなら。 もし、何のために生き、何のために苦しんでいるのか、その答えがわからず、 心が渇ききっているのなら。 

仕事、人間関係、健康、そして愛について・・・・ 人生に行き詰まりを感じるあなたへ。 

そっとこの本を開いてください。 

この物語は、絶望の淵に立たされた一人の男が、森の賢者から「四つの幸せの鍵」を受け取り、世界の、そして自分自身の驚くべき真実を発見していく旅の記録です。 

この物語を読み終えた時、あなたは知るでしょう。 

あなたが歩んできた、一見、無意味で、苦しみに満ちていたかのように見えた 人生の道のりが、実は、愛によって設計されていたことを。 

そして、あなたの人生で起こった出来事のすべてが、宇宙からあなたへの、愛に満ちたギフトであったことを思い出すのです。 

さあ、一緒に本当のあなたに還る旅を始めましょう。 どんなに深い森にも、必ず夜明けは訪れます。 

序章 すべての光が消えた日

 「あなたと一緒にいても、未来が見えないの」 

その声は、凍てつく夜の硝子を爪でなぞるように細く尖り、高層マンションの部屋に響いた。

テーブルの中央に置かれた白い紙箱の中には、小さなホールケーキが息をひそめている。蠟燭は火も点けられないまま、ただ箱の隙間から甘い香りがこぼれていた。今日は、アキラの三十歳の誕生日だった。 

分厚いガラス窓の向こうには、アキラが青春のすべてを削って手に入れたはずの夜景が瞬く。だが今、その光は祝福の星々ではなく、どこか遠くの墓標を冷たく照らす灯火に見えた。 

「ごめんね、アキラ。もう行かなくちゃ」 「・・・・・・さよなら」 

ミキは、バッグの中から一本の鍵を取り出すと、テーブルの上にそっと置いた。 

カチッ――小さく冷たい金属音が広いリビングに響く。 テーブルに置かれた合鍵。それは、二人の未来の扉を開く、幸せの鍵のはずだった。 

ミキは一度も振り返ることなく、足早に部屋を出ていった。玄関の扉が閉まると、部屋は再び静寂に支配された。アキラは、その場に立ち尽くし、彼女の気配が失われた空気を冷水のようにひややかに吸い込んだ。 

三ヶ月前、勤めていた会社から唐突に切り捨てられた。業界でも急成長が期待されているIT企業だった。アキラはその中で週末も、深夜も、時を忘れて働いた。いくつもの困難なプロジェクトを成功させ、同期の誰よりも早く昇進した。二十代で手にした役職、このタワーマンションの部屋、きらびやかな夜景。それは彼が築き上げた輝かしい戦利品だった。 

だが、砂上の楼閣は、あまりにも脆(もろ)かった。彼は上司に呼び出され、冷たい表情で退職勧奨という名の解雇を告げられたのだ。 

表向きの理由は、会社の深刻な業績不振。しかし、本当の理由は、彼自身にもわかっていた。成功は彼を傲慢にし、会議の席で見下していた上司を容赦なく論破したそのプライドを傷つけたことで、激しい嫉妬と憎悪を向けられていたのだ。 業績悪化は、その上司にとっては目の上のたんこぶであるアキラを排除するための、絶好の機会となった。 

彼がこれまで会社の成長にどれほど貢献してきたかなど、もはや何の意味もなかった。肩書も、収入も、そして己の存在そのものだと思い込んでいた自信も、すべて一夜で消え失せた。 

仕事を失ったストレスからか、彼の身体は原因不明の倦怠感と、骨の髄まで染みるような灼熱感に蝕まれ始めた。いくつかの病院を転々とした末、ある日、医師は彼の運命を決定づける冷酷な事実を告げた。『原因不明の進行性の難病です。全身に炎症が広がっていきます。治療法はなく、この進行を止める術はありません』 その宣告は、彼の未来という名の椅子を引き抜いた。 

そして今日、ミキからの誕生日プレゼントは別れの言葉だった。それは、彼の胸に残っていた最後の砦を音もなく打ち砕いた。愛されていたのは、成功というきらびやかな鎧をまとったアキラであって生身の彼ではなかったのだと、冷たい実感が胸の底に沈んでいった。 

ミキが無表情で去った部屋は、彼女の残り香すらなく、ただ冷え切った静寂だけが氷片のように漂っていた。アキラは、その空白の真ん中に立ち尽くし、息をすることさえためらいながら、ただ時間が遠くへ流れていくのを見送っていた。 

その時、ポケットの中でスマートフォンが鳴った。画面に浮かぶのは「母」の文字。 アキラはその画面が明滅するのを虚ろな目でただ見つめていた。もはや母からの電話に出る気力さえなかったのだ。その無償の愛さえも、救いのない絶望の淵にいる者にとっては重荷に感じられた。 

父親を早くに亡くし、女手一つでアキラを育ててくれた母。彼女は敬虔(けいけん)なクリスチャンであり、その厳格な信仰が、彼女が厳しい現実を生き抜くための唯一の支えだった。 とはいえ、アキラにとって母親が語る神は、救いではなかった。「すべては神の試練です」と祈るように言う彼女の言葉を聞くたびに、アキラの心には、形容しがたいほどの強い嫌悪感が、まるでアレルギー反応のように込み上げてくるのだった。 

人間は、生まれながらにして罪を背負っているのだという「原罪」の教え。幼い頃、母からも日曜学校でも聞かされてきた、罪人を裁き、永遠の炎で罰するという神。その神を、彼はどうしても愛することができなかった。むしろ、その冷酷な裁きと嫉妬深さに、魂の奥底から湧き上がるような、生理的なまでの拒絶反応を覚えていた。母親が語る「神の愛」は、彼にとって絶対的な支配者の気まぐれな恩寵にしか聞こえなかった。愛というより、恐怖の対象。それが彼にとっての神だった。 

着信音で我に返ったアキラは、まるで何かに憑かれたかのようにコートを羽織り、部屋を飛び出した。 

失業、病、そして失恋。 人生のすべての光が消え、最後には闇だけが残った。吐く息が白く染まる、冬の夕暮れだった。 

アキラは、葉が落ち切った裸の木々が並ぶ、寒々しい歩道を歩いていた。コートの襟を立てても、アスファルトの底から這い上がってくるような冷気が容赦なく身体の芯を奪っていく。 鉛のように身体は重く、それなのに日ごとに痩せ細っていく。身体の内側では、常に微かな熱を帯びた何かが骨を焼くように、じりじりと彼を蝕んでいた。それは、身体の芯が見えない炎に炙られ、ゆっくりと燃え尽きていくかのような灼熱感だった。 

どこへ向かうという目的もない。ただ歩き続けていなければ、自分という存在がこの街の冷たく無関心な空気に溶け、音もなく消えてしまいそうな気がした。 どれくらい歩いただろうか。気付けば、彼の足は、まるで古い記憶をたどるかのように子供の頃に住んでいた街へと向かっていた。視界の奥に公園の入り口が現れた。低い石垣と錆びた鉄の門扉の向こうには、遊具の影や霜で白くなった落ち葉の積もったベンチが見える。 

アキラは、公園のベンチへ糸の切れた操り人形のように崩れ込んだ。 「・・・・・・何のために生きているのだろう」 

呟(つぶや)きは、冷え切った夕暮れの空気に、かすかな白い息となって溶けた。その問いは、もはや彼にとって抽象的な哲学の問いではなかった。それは、日々の呼吸と同じくらいリアルで、切実な魂の渇きだった。 

ふと、学生時代に読んだ戯曲の一節が、心の底から霧のように立ち上ってきた。 それは、チェーホフの『三人姉妹』だったか。モスクワへ帰ることを夢見ながら希望のない地方の町で、心をすり減らして生きていく三人の姉妹の物語。その長姉が確か、こう呟くのだ。 

「もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。・・・・・・それがわかったら、それがわかったらね!」 

「それがわかったらね!」 

アキラは思わず、その言葉を声に出して呟いていた。そうだ、知りたい。ただ知りたいんだ。この意味のわからない苦しみの、その先に、何か意味があるのだと。たとえ、それがどんなに小さな灯であっても良い。その光を見つけられれば、この息の詰まる現実を、まだ生き続けられるかもしれない。 

だが誰も、その答えを教えてはくれない。社会も、学校も、かつての恋人も。 スマートフォンを取り出す。SNSを開くと、タイムラインには数時間前の『今日で30歳になりました』という空元気な自分の投稿。それには数人の義理堅い友人からの『おめでとう!』というスタンプが届いている。それはまるで墓標に手向けられた花のようだった。 

その時だった。 そのすぐ下には、友人たちの切り取られた幸福がストーリー機能の短い動画となって、次から次へと残酷なほど軽快な音楽とともに溢れ出してきた。 南国のリゾートでシャンパンのグラスを掲げる同僚。都心の高級レストランでダイヤの指輪をはめた薬指をかざして微笑む元部下。そして生まれたばかりの赤ん坊のしわくちゃで愛おしい寝顔に 『#宝物』 『#命の奇跡』というハッシュタグをつけた、かつての親友の投稿。 

他人の人生のハイライトだけを延々と見せつけられては、惨めな気持ちになる。その無限ループに疲れ果て、アキラはスマートフォンの電源を乱暴に切った。真っ黒になった画面は、まるで冷たい鏡のように生気を失い、この世の終わりのような顔をした自分自身を無慈悲に映し出していた。 

顔を上げると、目の前に蔦の絡まる古びた図書館が、まるで彼を待っていたかのように、ひっそりと佇(たたず)んでいた。 「・・・・・・ああ、そうか。この公園だったのか」 

子供の頃、本が好きだったアキラを週末になると母はよくここに連れて来てくれた。普段は厳しい顔ばかりしていた母親も、なぜかここでは穏やかな表情で本を読んでいたのを、ぼんやりと思い出す。

何か見えない力に引き寄せられるようにアキラは建物の重い扉を押した。 入り口を抜けると、暖房の風が頰を撫で、古い紙の乾いた匂いと、インクのわずかに甘い香りが混じり合った独特の匂いが彼の肺を満たす。その香りは、一瞬にして彼を子供時代へと引き戻した。無限の物語と、まだ見ぬ世界への期待に胸を膨らませ、ざらざらとした本の表紙を指でなぞった時の感触。 

子供の頃からアキラは知識に飢えていた。母親を質問攻めにしては困らせる、そんな彼にとって、この場所は必然的に聖域となった。小学校の頃、友人はほとんどいなかったが、世界の謎を解き明かす分厚い図鑑こそが最高の友人だった。あの頃の純粋な知的興奮が、心の奥底で微かに蘇るのを感じた。 

書架の間を当てもなくさまよう。 『勝者の思考法』『99%の人が知らない、成功者の掟』。 そんなタイトルが並ぶビジネス書や自己啓発書のコーナーには、もううんざりだった。あの棚に並ぶ言葉は、成功という山を登っている時には心強い杖となるが、谷底に突き落とされた者にとってはただ虚しく響く石つぶてに過ぎない。 

アキラが絶望的な気持ちで書棚を眺めていると、背後からしわがれた声がした。 「探し物は、案外思いがけない場所で見つかるものですよ」 

振り向くと、そこにいたのは白髪の老司書だった。彼はアキラに穏やかに微笑むと、何も言わずに書架の奥へと消えていった。その言葉に導かれるようにアキラの足は自然と、これまで見向きもしなかった哲学や宗教、神話の棚へと向かっていた。 

『死後の世界』『人生の意味について』『古代の叡智』・・・・・・ まるで今の自分の心を見透かしたかのようなタイトルが並ぶ中、装丁も擦り切れた古い本が目に留まった。背表紙の文字は、かすれてほとんど読めない。わずかに『カタリ』という見知らぬ言葉だけが読みとれた。 

その言葉を目にした瞬間、アキラの胸の奥で何かがちりりと微かな痛みを伴って疼いた。それはただの痛みではなく、まるで忘れていたはずの古傷に、不意に触れられたような感覚だった。 

「カタリ・・・・・・?」 彼は、その言葉を無意識に口にした。理由もわからずその本に手を伸ばす。ゆっくりとページを開くと、その間から、一枚の古い絵葉書がはらりと床に舞い落ちた。 拾い上げると、そこには古びたインクで書かれた流麗な文字が並んでいた。まるで音楽を奏でるような美しい筆跡。 



「人生の森で道に迷い、 すべての光を見失った旅人よ。

 あなたの魂を解放する、 四つの幸せの鍵が ソフィアの森で待っている。 

その鍵を求めるのなら、 北の山へ向かいなさい。

 満月が昇る日、森の入り口で、 賢者があなたを導くだろう」 

文字の下には、手書きの簡素な地図が描かれているだけだった。 「馬鹿げている・・・・・・」 

誰かの手の込んだ悪戯か、新興宗教の勧誘だろう。アキラは絵葉書を本に戻そうとした。しかし、その美しい文字と「ソフィアの森」という名前に、なぜか強く心を惹かれていた。ソフィア・・・・・・。ギリシャ語で「叡智」を意味する言葉。その響きは、アキラの心の奥底に眠っていた知的な探求心に火をつけた。学校や教会が教える建前だけの道徳ではない。この言葉には、世界の本当の姿を解き明かす禁じられた叡智が隠されている――そんな予感が彼の理性を麻痺させ、心を鷲掴みにした。 

彼は、絵葉書を裏返して表面に描かれたスケッチに目を落とした。 断崖絶壁の上に孤立するように建つ古びた城塞の絵。 


初めて見るはずのその風景が網膜に焼き付いた次の瞬間、あの原因不明の灼熱感が、まるで内側からマグマが噴き出すように、これまでで最も激しく彼の全身を襲った。骨の髄まで焼かれるような痛みと呼応するように、脳裏に強烈な幻が広がった。 

どこか遠い場所で響く荘厳な聖歌。  そして夜空を焦がし、天にまで届かんとする、巨大な赤い炎の揺らめき。 「ぐっ・・・・・・!」 

アキラは、思わずうめき声を漏らし、あやうく体が崩れ落ちるところだった。息が荒くなり、冷や汗が吹き出す。 理屈では説明がつかない。しかし、この身体が覚えている魂の絶叫のような圧倒的な反応。この絵葉書は、ただの紙切れなどではない。きっと自分の失われた過去と、そしておそらくは残された未来へと繋がる何らかの手がかりなのだと、彼は直感した。 

もはや迷いはなかった。 「・・・・・・どうせ、他にやることなど何もない」 

自嘲気味に呟くと、アキラは絵葉書をズボンのポケットにねじ込み、図書館を後にした。それは理性を超えた、抗いがたい衝動だった。 

その晩、アキラはなけなしの預金を下ろし、夜行バスの切符を買っていた。地図が示す北の山へ向かうために。ひょっとしたら、ちょうどよい死に場所を探し求めていたのかもしれない。スマートフォンのカレンダーアプリを開けば、翌日は、奇しくも完璧な円を描く満月だった。 


人生の森で道に迷い、すべての光を見失った時、あなたの発する真摯(しんし)な「知りたい」という心の叫びこそが、魂の旅の始まりを告げる最初の道標です。

 

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