神は宇宙そのものなのか、それとも宇宙の外に立つ人格なのか。
この問いは、西洋の哲学と神学が何百年も争ってきたものです。
今日は、スピノザの神と聖書の人格神をたどりながら、こちらで大霊とお呼びしている根源の存在が、そのどちらとも違うところにある事をお伝えします。
汎神論と人格神、二つの神の考え方
汎神論は、神と世界を同じものと見る考え方です。
山にも川にも神が宿るという感覚に親しんできた日本人には、なじみやすい見方でしょう。
聖書の神は、それとは正反対の位置に立っています。
天地を造った創造主で、造られた世界とは別にいて、人に語りかけ、愛し、ときに怒り、罰を下す人格を持った神です。
出エジプト記にはねたむ神という言葉があり、マタイによる福音書には永遠の罰という言葉が出てきます。
西洋では長いあいだ、汎神論は異端とされてきました。
造った者と造られた物を同じにすれば、神を拝む事が自然を拝む事と変わらなくなるというのが、人格神を説く側の言い分です。
汎神論の側からは、神を人の姿に似せて思い描くのは、人間の想像を神に押しつけているにすぎないと返されてきました。
スピノザの神は宇宙より大きい
汎神論の代表とされてきたのが、十七世紀のオランダの哲学者スピノザです。
神を自然そのものと説いたスピノザは、アムステルダムのユダヤ人の共同体から破門されています。
ところが主著の『エチカ』を読むと、その神は物理的な宇宙とイコールではありません。
神は無限に多くの属性を持つ唯一の実体で、人間に知られているのはそのうち思考と、物の広がりの二つだけです。
物理的な宇宙は、その一つの属性の現れにすぎません。
それでもスピノザが汎神論の代表とされるのは、神の外には何も存在しないと考えたからです。
存在するものはすべて神の中にあり、神の働きは意志による選択ではなく、三角形の性質が三角形から出てくるような必然として説かれます。
目的というものも、人間の想像が生んだものとして退けられました。
神は誰も愛さず、誰も憎まないとまで書かれています。
ヘーゲルはこれを、世界が神の中に溶けて消えてしまう考え方だと評しました。
宇宙より大きな神を語りながら、そこには意志も愛も、一人ひとりの魂が育っていく余地もないのです。
怒り罰する神という像の行き詰まり
人格神の側にも、行き詰まりがあります。
神を世界の外に立つ創造主とすると、無限であるはずの神が、世界という外側の他者によって区切られてしまいます。
ヘーゲルは、有限なものを外に持つ無限は本当の無限ではないと論じました。
神が人間の罪に怒るとすれば、神は人間の行いによって心を動かされる存在になります。
無限の愛を持つ神が、改心の道を永久に閉ざす罰を与えるというのも、愛という言葉と噛み合いません。
もっとも、トマス・アクィナスのような神学者たちは、聖書の怒りを比喩として読んできました。
ここで行き詰まっているのは神学の全体ではなく、怒り、ねたみ、罰する神を言葉どおりに受け取る像のほうです。
怒る神は、怒る人間の写しにすぎないのかもしれません。
大霊は宇宙を母胎として内に包み、外にも広がる
根源界の中心にある、すべてを創造し育み続けている存在を、こちらでは大霊とお呼びしています。
宗教によっては創造主と呼ばれ、ネイティブアメリカンはグレートスピリットと呼んできました。
霊的に見ると、大宇宙は大霊の母胎のようなものです。
宇宙は大霊の一部ですが、大霊はその外にも広がる巨大な意識で、宇宙の中に収まりきりません。
私たちは、宇宙という母胎にいる胎児のようなものです。
目に見えないへその緒で大霊とつながり、そこから命を送られて生かされています。
この見方に立つと、汎神論と人格神の説は、どちらも半分ずつ正しかった事が分かります。
宇宙が大霊の一部で、万物に大霊の命が通っているという点は、汎神論が正しくつかんでいました。
大霊が宇宙より大きく、愛と叡智をもって宇宙を育んでいるという点は、人格神を説く側が正しくつかんでいました。
外れていたのは、汎神論が世界を神の中に溶かしてしまったところと、人格神の側が神を世界の外に置き、人の姿に似せて怒らせたところです。
胎児は母親の内にいて、母親は胎児よりはるかに大きな存在として外にもいます。
内に宿る事と外に超えている事は、少しも矛盾しないのです。
神学では、万物は神の内にあり神は万物を超えているという考えを、汎在神論と呼びます。
大霊の見方は骨組みがこれに近いのですが、霊界の階層と、そこを一段ずつ上って根源へ還っていく魂の歩みまでを含んでいます。
法則と愛、独立と一体は矛盾しない
大霊は宇宙の法則そのものでもあります。
法則なら冷たいものではないかと思う方もいるはずです。
けれど母親の体は、生理の法則に従って胎児を養いながら、その営みそのものが子を育む働きになっています。
法則は、大霊の意志が例外なく現れる形なのです。
地獄と呼ばれてきた世界を、こちらでは暗黒界と呼んでいます。
神が罰として落とす牢獄ではなく、魂自身の暗い心境が引き寄せ、生み出した世界だからです。
人がそこへ下りるのは因果の法則によるもので、大霊が怒ったからではありません。
反省し、償いの道を歩めば、魂は必ず上へ向かえます。
暗黒界に永久に留め置かれる魂はいません。
もう一つ、魂は大霊と一体なのか、それとも独立しているのか、という問いがあります。
一体であるというのは、命の源において大霊に支えられているという事です。
独立しているというのは、一人ひとりが自分の意識を持つ主体だという事です。
この二つは別の面の話で、お腹の中の赤ちゃんには、現に両方が成り立っています。
スピノザの神の中では、人間は神の様態の一つとして溶けたままです。
大霊の母胎の中では、魂は消えずに育ち、やがて根源へ還っていきます。
二つの説を超えた大霊の見方のいちばん大きな違いは、ここにあると私は考えています。
神は外にも内にもいる
大霊は、宇宙を母胎として内に包みながら、宇宙の外にも広がる愛と叡智の根源です。
汎神論は神の内在を、人格神の説は神の超越と意志を、それぞれ半分ずつつかんでいました。
その二つを一つの関係として結ぶのが、母胎と胎児の関係です。
神を遠い天の上に探す必要も、宇宙の中に閉じ込める必要もありません。
命をくれた源は、いつも私たちを包み、内側からも支えています。
祈りの時に大霊へ心を向けるのは、もともとつながっている源へ思いを返す事です。
どうか日々、その命のつながりを思い出しながら、光の側を選んで歩んでいかれてください。
さらに論理的に思考を深めた小論を書いてみます。
スピノザの神と大霊 汎神論・人格神論・万有在神論のあいだで
一 問題の所在
神をめぐる議論は、神を世界と同一視する汎神論と、世界の外に立つ人格的な創造主を説く人格神論の対立として語られてきました。スピノザは汎神論の代表とされますが、その神は物理的な宇宙より大きいため、万有在神論に近いと読む研究者もいます。本稿は、スピノザの神の位置を定義に即して確定し、私が大霊と呼ぶ根源の存在がそのいずれとも異なることを示します。なお本稿は大霊の実在を論証するものではありません。大霊の実在は霊的な体験に由来する前提であり、本稿が示すのは、その見方の概念上の整合性と、既存の諸説との差異です。
二 スピノザの神
『エチカ』の神は、無限に多くの属性から成る絶対に無限な唯一の実体です(第一部定義六)。人間に知られる属性は思惟と延長の二つだけで、物理的な宇宙は延長の属性の様態にすぎません。神は物理的な宇宙に尽きないのです。
同時にスピノザは、存在するものはすべて神の中にあり(第一部定理十五)、神は万物の内在的原因であって超越的原因ではないとします(同定理十八)。神は意志の自由によって働かず(同定理三十二系一)、万物は今ある仕方以外では生じえず(同定理三十三)、目的因は人間の想像の産物として退けられます(第一部付録)。神は誰も愛さず、誰も憎みません(第五部定理十七系)。人間の精神は身体の観念であり(第二部定理十三)、精神の何かは永遠ですが、記憶は身体の持続するあいだしか残りません(第五部定理二十一、二十三)。
三 分類の問題
汎神論を神と物質宇宙の同一と定義すれば、スピノザはこれに当たりません。汎神論を神の外に何も存在せず、神と存在の全体が同一であることと定義すれば、スピノザはその典型です。神あるいは自然(第四部序文)の自然は、無限の属性を含む存在の全体を指すからです。
万有在神論は、万物を神の内に置きつつ、神と世界のあいだに存在論的な区別を保ちます。スピノザの世界は実体の変状である様態であり、神から区別された主体ではありません。ヘーゲルがこれを無世界論と評したように、スピノザでは世界が神の中に溶けています。したがってスピノザの神は、物質宇宙を超えてはいても世界の外に立つものではなく、広義の汎神論に属すると解するのが標準です。
四 大霊論の命題
大霊論は次の四命題から成ります。第一に、大霊は宇宙を内に含み、かつ宇宙に尽きません。第二に、宇宙は大霊の一部であり、大霊が命を育む母胎です。第三に、大霊は万物を創造し育む意志と愛と叡智を持ち、同時に宇宙の法則そのものでもあります。第四に、個々の魂は独立した意識を持ちつつ、目に見えないへその緒によって大霊と一体です。
第三命題には、法則と愛は両立しないという反論が予想されます。しかし法則とは働きの規則性であり、意図の不在を意味しません。母体は生理の法則に従って胎児を養いますが、その営みは同時に子を育む働きです。法則は大霊の意志が例外なく現れる形式であり、両者は矛盾しません。
第四命題には、独立と一体は両立しないという反論が予想されます。しかし矛盾律が禁じるのは、同じ観点で同じものを肯定し否定することです。一体であるとは、存在と命の源において依存していることを指し、独立しているとは、意識の主体として区別されていることを指します。両者は異なる観点に属し、胎児において現に両立しています。
五 スピノザとの差異
第一に、異なるのは包含の様式です。スピノザの様態は実体の変状であって、自らの生を持つ主体ではありません。大霊論の魂は、母胎の中の胎児のように、源に依存しながら固有の生を持つ主体です。世界は神に吸収されず、包まれたまま育ちます。
第二に、異なるのは目的の有無です。スピノザは目的因を退け、万物を幾何学的な必然として神から導きます。大霊論では、宇宙は魂を育てる母胎であり、魂の成長と根源への帰還という目的を持ちます。
第三に、異なるのは魂の存続です。スピノザは記憶を伴う個人の存続を認めません。大霊論の魂は、自己の同一性を保ったまま霊界の階層を上り、根源へ還ります。
六 結論
大霊論は、神を物質宇宙と同一視する狭義の汎神論でも、世界を神に吸収するスピノザの広義の汎神論でもありません。神を人の姿に似せた人格神論とも異なります。構造上は万有在神論に最も近いですが、母胎と胎児の関係によって包含と超越、法則と愛、一体と独立を同時に示し、魂の成長と帰還という目的論を備える点で固有のものです。汎神論は神の内在を、人格神論は神の超越と意志を、それぞれ半面ずつ捉えていました。大霊論は、その二つの半面を一つの関係として結び合わせるものです。
スピノザの神と大霊(続) 人格神論の批判と大霊
一 批判の対象
前篇では、スピノザの神が世界を自らの内に吸収し、意志も目的も持たないことを確かめました。本篇はもう一方の極、人格神論を扱います。ここで批判の対象とするのは、神を世界の外に立つ個体として描き、人間と同じ型の感情を持ち、怒り、ねたみ、罰を下す存在とする人格神の像です。聖書には、ねたむ神(出エジプト記二十章五節)や、永遠の罰(マタイによる福音書二十五章四十六節)という表現があります。
ただしトマス・アクィナスに代表される古典的有神論は、神が情念に動かされる事を否定し、聖書の怒りを比喩と解してきました。本篇の批判は、こうした神学の全体ではなく、神の感情と罰を字義どおりに受け取る人格神の像に向けたものです。以下の議論は、この限定のもとで成り立つものです。
二 擬人化への批判
神を人の姿で思い描く傾向は、古くから批判されてきました。クセノファネスは、牛や馬に手があれば神々を牛や馬の姿に描くだろうと述べています(断片十五)。フォイエルバッハは『キリスト教の本質』で、神とは人間が自らの本質を外へ投げ出した像だと論じました。
この批判が示すのは、神に人間の感情を帰すとき、私たちが神について語っているのか、自分自身について語っているのかが区別できなくなるということです。怒る神は、怒る人間の写しにすぎない可能性を排除できません。
三 外在する神の自己矛盾
人格神論は、神を世界の外に立つ創造主とし、世界を神とは別の被造物とします。しかし神が無限であり、世界がその外にあるなら、神は世界という他者によって限られることになります。ヘーゲルは『大論理学』で、有限なものを外に持つ無限は、それ自体が有限なものに限られた悪無限にすぎないと論じました。真の無限は、有限なものを自らの外に持たないものでなければなりません。
神を世界の外に置くかぎり、神の無限性と世界の他者性は両立しません。これが外在的な人格神の像が抱える論理上の困難です。
四 罰する神の困難
神が人間の罪に怒り、永遠の罰を下すとすれば、二つの困難が生じます。第一に、神が人間の行為によって怒りへと動かされるなら、神は被造物に左右される存在となり、その完全性は損なわれるはずです。第二に、無限の愛を持つ神が、改心の機会を永久に閉ざす罰を与えることは、愛の概念と緊張関係に立つ事になります。神の義によってこれを正当化するとしても、愛と罰の二つの原理を神の内に並べることになり、問われるのは神の単一性です。
五 大霊との差異
大霊は、意志と愛と叡智を持つという点で、スピノザの神とは違い、人格神論の正しい半面を受け継いでいます。しかし大霊は、人格神の像が抱える三つの困難を、次の仕方で免れています。
第一に、大霊は世界の外に立ちません。宇宙は大霊の母胎であり、大霊は宇宙を内に含み、かつ宇宙に尽きない存在です。有限なものを外に持たず、内に包んで超えるので、悪無限の批判は当たりません。
第二に、大霊は怒る事も罰する事もない存在です。地獄と呼ばれてきた世界を、私は暗黒界と呼んでいます。それは神が罰として落とす牢獄ではなく、魂自身の暗い心境が引き寄せ、生み出した世界だからです。人がそこへ下りるのは因果の法則によるのであって、大霊の感情が動かされたからではありません。大霊は被造物に左右されず、完全性は保たれます。
第三に、大霊の愛と義は二つの原理ではありません。因果の法則は大霊の意志が例外なく現れる形式であり、その法則のもとで、魂は反省し償いの道を歩めば必ず上へ向かえます。暗黒界に永久に留め置かれる魂はいません。義は愛の働き方の一つであって、愛と並び立つ別の原理ではないのです。救いを決めるのは特定の信仰や組織への所属ではなく、魂自身の悔悛です。
さらに、人格神論では神と人間は創造主と被造物として隔てられますが、大霊論では魂は大霊の内に宿り、へその緒によって命を受け、内なる神性を宿しています。人間は神の外に置かれた僕ではなく、母胎の中で育つ子です。
六 結論
人格神論は、神が意志と愛を持つという真理をつかんでいましたが、神を世界の外に置き、人間の感情を神に帰したことで、無限性と完全性と単一性に困難を抱えました。スピノザは神を世界の内に置くことでこの困難を避けましたが、意志と愛と魂の固有の生を失いました。大霊論は、神を世界の内に包みつつ超えるものとし、意志を法則として、愛を義の根拠として捉えることで、両者の半面を一つに結びます。大霊は人の姿に似せた人格神ではなく、意志と愛を持ちながら、あらゆる人格の源として人格を超えた、愛と叡智の根源です。
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