引っ越し先の家を決める前に内見に行くと、庭から一羽の雉が見えました。
雉は古くから吉兆の鳥とされてきましたが、心で感じる予感とは別に、こうして目に見える現象として届く知らせには、どんな意味があるのでしょうか。
昨日はスクールの記事で、家族で暮らす土地と住まいの見極め方を書きました。
その中で、沖縄の海辺から那須の高地へ移ったわが家の動きが、南米で生きた前世の、海辺の漁師町から高地へ移った流れとよく似ていたと、あとになって分かった話もお伝えしています。
良い兆しも、気をつけるよう促す兆しも、霊的に見ると偶然の出来事ではなく、見えない世界から送られてくる合図である事が多いのです。
内見の庭に現れた雉が告げていたもの
雉は、昔から縁起の良い鳥です。
焼け野の雉、夜の鶴という言葉があります。
巣のある野原が火事になっても、雉は自分の命を顧みずに卵や雛を守ろうとし、鶴は霜の降りる夜に自分の羽で子を包んで温めるというたとえで、親が子を思う心の強さを表しています。
この子煩悩な生き方から、雉は家族愛、夫婦円満、子孫繁栄をもたらす吉兆とされてきました。
わが家は子ども三人を連れての引っ越しでしたから、これから家族の暮らしを始める家の庭に雉が姿を見せた事には、ちゃんと意味があったと受け取っています。
神の使いとしての雉と、射落とされた知らせ
神社や神話の世界でも、雉は神の使いとされています。
古事記には、鳴女(なきめ)という名の雉が登場します。
地上を治めるよう遣わされたまま八年も高天原に戻らなかった天若日子のもとへ、天の神々の問いを届けに行ったのが、この雉でした。
ところが天若日子は、門の木にとまって神々の言葉を伝えた鳴女を弓で射てしまいます。
その矢は天まで届き、投げ返された矢に当たって、天若日子は命を落としました。
天からの知らせを射落とした者が、その矢を自分で受ける話です。
神々の使いを粗末に扱った報いというより、届いた知らせに耳を貸さなかった心が、自分の運命を閉ざしてしまったのだと読む事も出来るでしょう。
今でも、神社の境内や参拝の道中で雉に出会ったり、ケーン、ケーンという高い鳴き声を聞いたりするのは、神様に歓迎されている、願い事が叶うという吉兆とされます。
蛇に勇敢に立ち向かう姿や、羽の鮮やかな色から、雉には邪気を払う魔除けや厄除けの力があるとも信じられてきました。
雉が身近に現れるのは、悪いものから家族を守ってもらえるという知らせでもあるのです。
ちなみに雉は内見の時と、引っ越してきた当時に姿を現してくれました。
霊的に見ると、兆しはどこから届くのか
守護霊や指導霊は、いつもそばで語りかけています。
ただ、日々の忙しさや心配事で心がふさがっていると、その声は魂の奥まで届きません。
そういうときに守護霊は、鳥や動物の動き、物の壊れ方、偶然の重なりといった、目に見える現象を使って知らせてくる事があります。
鳥や動物は人間のように理屈で抵抗しないので、霊的な流れにそのまま乗って動きやすく、使いの役目を果たしやすいのです。
兆しかどうかを見分ける目安は、三つの重なりです。
ひとつは時期で、迷っているときや決める直前、何かを始めようとしたその日に重なって起こります。
もうひとつは珍しさで、ふだんは見かけない生き物や、めったに起こらない出来事が、ちょうどそのときに重なっているかどうかです。
最後は心の反応で、見た瞬間に胸のあたりがあたたかくなったり、鳥肌が立ったり、理由もなく晴れやかになったりします。
この三つが重なったときは、見えない世界からの知らせとして受け取ってよいと考えています。
よくない兆しとして現れる現象
吉兆があるなら、反対に気をつけるよう促す兆しもあるはずです。
雉にしても、地震の前に騒いで鳴くという言い伝えが各地に残っていて、同じ鳥が危険を知らせる側にも回ります。
出かける直前に靴ひもや鼻緒が切れる、大事な契約の日に限って書類が見当たらない、何度も道を間違えて約束の場所にたどり着けない、器や鏡が続けて割れる。
こういう事が重なるとき、霊的には、そのまま進まずに一度立ち止まって確かめなさいという合図である場合が多いのです。
引っ越しや転職のように大きな決断の前で、話がなぜか何度も流れたり、行こうとするたびに邪魔が入ったりするなら、その流れには無理がないか見直したほうがよいでしょう。
ここで勘違いしてほしくないのは、よくない兆しは罰でも呪いでもないという事です。
物が割れたときに、身代わりになってくれたと考える習わしが昔からありますが、霊的に見ても、小さな出来事で済ませてもらえた事への感謝を向ける場面である事が多いのです。
兆しを怖がって動けなくなると、その恐れの想念が、かえって暗いものを引き寄せてしまいます。
見直して、問題がなければ進めばよく、引っかかる所があれば手を打てばいい。
悪い兆しは、守護霊が転ぶ前に足もとを照らしてくれている光だと受け取ってください。
兆しに振り回されないために
兆しを気にしはじめると、今度は何でも兆しに見えてくるという人もいるはずです。
カラスが一羽鳴いただけで不吉に思えたり、茶柱が立たなかっただけで一日が不安になったりするなら、それは知らせを受け取っているのではなく、自分の不安を外の出来事に映して見ている状態です。
不安の強いときに見る兆しは、たいてい不安の色に染まっています。
兆しは道を確かめる合図であって、生き方を決めてくれるものではありません。
決めるのは自分の魂で、兆しはその決断を後押ししたり、立ち止まらせたりする脇役なのです。
知らせを正しく受け取れるかどうかは、ふだんの心の持ち方にかかっています。
日々祈り、守護霊に心を向け、感謝を忘れずに暮らしていると、心が澄んで、届いた知らせにも素直に気づけるようになります。
心が曇っていれば、庭先に雉が現れても、ただの鳥として見過ごしてしまうでしょう。
吉兆とは、見えない世界が目に見える形で背中を押してくれる知らせです。
よくない兆しも、立ち止まって確かめるために届く、同じ見守りの表れです。
どちらも、守護霊がそばで導いてくれている証しにほかなりません。
みなさまも、日々の暮らしに届く小さな知らせに気づいて、光の側の道を選びとっていかれてください。
その歩みが、守護霊の祈りと重なって、魂の学びを実らせていく事を願っています。
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