いま、俳優の佐藤二朗さんをめぐって、共演者との間のトラブルが報じられ、世間が大きく揺れています。
ネットをのぞくと、どちらの側に立つかで人々がふたつに割れ、責め合う声が飛び交っています。
私は、この対立が一日も早くやわらいでほしいと願っています。
ただ、今日お伝えしたいのは、騒動の是非ではありません。
この方が長く抱えてきた強迫性障害と、その奥に私が視た、ひとつの前世のことです。
汚れを恐れ、確かめずにいられない心の底に、いったい何が眠っているのか。
そこには、時代も国も越えた、ひとりの魂の記憶が横たわっていました。
責め合う前に、立ち止まってみる
報道の細かな中身に、私はここで踏み込みません。双方の主張は食い違ったまま、外側から本当のところは見えないからです。
けれど、ひとつだけ思うことがあります。
片方を裁いて溜飲を下げても、あとには何も残らない。
どちらの中にも、言い分があり、傷つき、疲れている人がいます。
画面の向こうの誰かに石を投げる前に、私たちはもう少しだけ、想像力を働かせられるはずです。
その人が背負っているものを、私たちは本当は何も知らないのですから。
佐藤二朗さんという、遅咲きの表現者
佐藤さんは愛知のご出身で、四十を目前にしてようやく広く知られるようになった、遅咲きの俳優さんです。コミカルな役から、底知れぬ怖さをまとう役まで、振れ幅の大きな芝居で人を惹きつけてきました。
今年公開された映画『名無し』は、原作と脚本を自ら手がけ、主演も務めた一作。
連続殺人犯を演じたその姿は、観る者の背筋を凍らせたと言われます。
演じるだけでなく、物語そのものを生み出す側にも立つ。
書くという行為は、この人にとって呼吸に近いものなのだと思います。
笑わせる芝居も、震え上がらせる芝居も、根はひとつ。
人の心の奥にあるものを掴んで、そっと目の前に差し出す力です。
「強迫性障害」を、自らの言葉で
その佐藤さんが、自分の言葉で強迫性障害を公にしたのは、少し前のことでした。小学生のころに発症し、あまりのつらさに『memo』という映画まで作ったと明かしています。
根治は諦めた。けれど、病とともに生きると決めた。
「病含め僕」「いつか病に礼を言えるよう」。
酔った夜にこぼれたというその言葉に、長く苦しんだ人だけがたどり着ける静けさがにじんでいました。
強迫性障害は、単なる心配性でも、几帳面な性格でもありません。
手が汚れている気がして、何十回も洗ってしまう。
鍵を閉めたか気になって、家に何度も戻る。
頭では「もう大丈夫」とわかっていても、その考えが止まらない。
本人がいちばん「馬鹿げている」と感じながら、それでも抗えない。
だからこそ、苦しいのです。
周りからは「気にしすぎ」と見えても、本人の中では、確かめずにいられない衝動と、確かめてしまう自分への嫌悪とが、一日じゅう綱引きを続けています。
その消耗は、外からはほとんど見えません。
だからこそ、多くの人が誰にも言えないまま、ひとりで耐えているのです。
意志の弱さではなく、脳の働きが関わる病であり、きちんとした治療とケアの対象になります。
心理学者のユングは、こんな言葉を残しました。
「無意識を意識化しない限り、それは人生を導き続ける。そして人は、それを運命と呼ぶ」。
心の奥にしまい込まれた記憶は、消えるのではなく、形を変えて表に現れる。
その記憶は、必ずしも今生のものとは限らない、と私は考えています。
症状の奥に眠る、前世の記憶
私はこれまで、こうした症状を抱える方の前世に触れてきました。以前、潔癖症で、何度手を洗っても洗い足りないという相談者に出会いました。
その方を前にしたとき、前世で感染症にかかり、命を落としていく様子が浮かんだのです。
汚れへの恐れは、遠い記憶が体に刻んだ痕なのかもしれない。
魂は、言葉にならない古い記憶を、症状という形で今に持ち越すことがあるのです。
体は覚えていないつもりでも、魂はちゃんと覚えている。
頭で説明のつかない恐怖ほど、その源は今生の外にあることが多いように感じます。
では、佐藤二朗さんはどうか。
お姿を思い浮かべると、イギリスでの前世が視えてきました。
そこで彼は、芝居の書き手をしていたようです。
筆の立つ人でした。
ところが、書き上げた作品のどこかが、王室への批判と受け取られてしまう。
時の権力に睨まれ、彼は幽閉されました。
日の差さない石壁の内側で、季節の移ろいさえわからなくなっていく。
面会も筆記具も許されず、外の世界から名前ごと忘れられていく恐怖だけが、日ごとに濃くなりました。
視えるのは、光の乏しい牢の中。
冷たい石の床に座り込み、小石を握りしめ、床に何かを必死で刻んでいます。
よく視ると、それは作品ではありませんでした。
「自分は、ここにいる」。
ただ、それだけを彼は書いている。
このまま名を消され、誰にも知られないまま死んでいく。
その恐怖に追い立てられ、存在した証を石に彫りつけずにいられなかったのです。
伝えたかったのは物語ではなく、消される前の「私」そのものでした。
この前世で刻まれた恐怖が、今の症状として顔をのぞかせているのかもしれません。
何度も確かめ、確かめ直さずにいられない心の奥に、あのとき「確かにここにいた」と証を立てられなかった無念が、まだ息づいているように思えるのです。
そう考えると、彼が今、原作を書き、脚本を書き、物語を放ち続けていることの意味が、違って見えてきます。
牢の床で奪われた「書くこと」を、彼は時を越えて取り戻している。
今年世に出した一作の題が『名無し』であることも、私には偶然とは思えません。
名を持たぬ者、名を消されかけた者の物語を、よりによって彼自身が書いた。
魂は、かつて果たせなかったことを、今生でやり直そうとするのです。
病は、ただの不運ではないのかもしれません。
果たせなかった思いに、もう一度向き合うための入口でもあるのです。
今日から、あなたにできること
もし今、あなた自身が同じような繰り返しに苦しんでいるなら、あるいは身近な誰かがそうなら、こんなことを心に置いてみてください。- 確認や手洗いがやめられない自分を、まず責めないこと。意志の問題ではありません。
- つらさが日常を侵すほどなら、ひとりで抱えず、専門家の力を借りること。
- 症状を弱さと決めつけず、魂が抱えてきた古い記憶かもしれない、と一歩引いて眺めてみること。
- 日記でも、絵でも、何でもかまいません。「自分はここにいる」と残す小さな表現を、大切にすること。
- ネットの対立で誰かを断罪したくなったら、その人にも語られていない痛みがある、と思い出すこと。
けれど、こうした小さなまなざしの積み重ねが、自分と他人の魂を、そっと守っていきます。
大げさな救いよりも、こうした地味な優しさのほうが、案外深いところで人を支えます。
石に刻まれた「ここにいる」を信じて
騒動のただ中にいる今、佐藤さんの心は休まらないでしょう。それでも、いつかこの人が「病に礼を言える」と語った日のように、この対立にもやわらかな終わりが訪れることを願っています。
裁きではなく、和解を。
石を投げ合う声よりも、牢の床で「ここにいる」と刻み続けた、あの必死な指先のほうを、私は信じたい。
あなたの中にも、消えない光が、ひとつ確かに灯っています。
その光は、どんな時代の、どんな闇の中でも、あなたが確かに「ここにいる」ことを、ずっと証し続けてくれています。 ↓一日一回のクリックが、このブログの灯を守ってくれます
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