平将門の呪いと首塚の地震伝説|首都圏の大雨と地震を霊的に読む

2026年8月24日月曜日

時事問題 自然災害

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将門の呪いは本当か 首都圏の大雨と地震を霊的に読む

この半月、首都圏で災害が続いています。

千葉の豪雨、東京の記録的な大雨、そして深夜の震度5弱。これはただの偶然が重なっただけでしょうか。

ネットでは、ひとつの噂が広がっています。平将門の呪いが動き出したのではないか、というものです。

噂の出どころにも、将門という人物にも、そして「祟り」という現象そのものにも、それぞれ見るべきものがあります。霊的に見るとどう見えるのかも、あわせて書きます。

この半月、首都圏で何が起きたか

8月13日の夕方から14日の未明にかけて、千葉県に線状降水帯がかかりました。

記録的短時間大雨情報の発表は23回。佐倉市や千葉市では1時間に120ミリを超える雨が降り、千葉市の降水量は半日で348ミリに達しています。8月ひと月ぶんの3倍にあたる雨が、半日で落ちたことになります。

市川市と佐倉市では亡くなった方が出ました。柏市、市原市、鎌ケ谷市では多くの家が水に浸かり、千葉と茨城であわせて約20万世帯、40万人に避難指示。成田空港では6000人以上がターミナルで夜を明かし、蘇我駅の周辺では4000人が帰れなくなりました。

被災された方に、心よりお見舞いを申しあげます。

そして22日、今度は東京でした。夕方5時までの1時間に、板橋区付近で約120ミリ以上。北区でも豊島区でも約100ミリという猛烈な雨が降り、東京駅の近くでは掘削現場に水が流れ込んで道路に穴が開きました。

その翌日、23日の午前2時。茨城県南部を震源とする地震が起きます。マグニチュード5.9、深さ70キロ。茨城、埼玉、千葉、そして東京の足立区で震度5弱を観測し、真夜中に緊急地震速報が鳴り響きました。

10日ほどのあいだに、これだけのことが重なった。落ち着かない気持ちで空を見上げている人は、少なくないはずです。

首塚で奇声を上げた配信者

噂の発端になったのは、8月19日のライブ配信でした。

東京・大手町の将門塚で、ある配信者が塚によじ登り、奇声を上げ、下半身を露出したと報じられています。映像はまたたく間に拡散しました。

塚を守る管理団体は警察に相談したことを明らかにし、22日には、この配信者が所属していたグループが脱退処分を公表しています。あわせて、礼拝所不敬罪と公然わいせつ罪で在宅起訴されたことも発表されました。

問題は、その直後から首都圏で災害が続いたことでした。千葉の豪雨は配信より前の出来事ですが、東京の記録的な大雨も、未明の地震も、あの配信のあとに起きています。SNSには「将門の祟り」という言葉が並びました。

平将門とは、どんな人だったのか

平将門は、平安時代の中ごろに関東で生きた武将です。桓武天皇の血を引く一族に生まれました。

はじまりは一族どうしの争いでした。所領をめぐるいざこざが広がり、やがて国司との対立へと形を変えていきます。追われる者をかくまい、朝廷の役人と衝突し、気がつけば関東一円を手中に収めていました。

そして将門は「新皇」を名乗ります。京都の朝廷とは別に、東国に独自の政権を立てようとした人でした。日本の歴史の中で、ここまで踏み込んだ者はほとんどいません。

天慶3年、西暦940年。藤原秀郷と平貞盛の軍に討たれ、将門は額に矢を受けて倒れます。首は京へ運ばれ、七条河原にさらされました。

その首が何日たっても目を見開いたまま腐らず、やがて夜空へ舞い上がって東国へ飛び、力尽きて落ちた場所が今の大手町。そう語り継がれてきたのが、将門塚です。

関東の人々にとって、将門は朝廷に逆らった賊ではありませんでした。重い税と都の収奪に苦しむ自分たちのために立ち上がってくれた人。だからこそ塚は壊されず、千年ものあいだ守られてきたのです。

呪いの伝説は、どこまでが事実か

将門塚に「祟り」の評判がついたのは、そう古い話ではありません。

関東大震災のあと、大蔵省が一帯に仮庁舎を建てようとして塚を発掘しました。すると工事に関わった人たちに不幸が続き、昭和2年、大蔵省みずからが鎮魂碑を建てて鎮魂祭を行っています。役所が公式に霊を祀った。これは異例のことです。

昭和15年には、大蔵省の庁舎が落雷で焼けました。将門が討たれてちょうど千年にあたる年です。

戦後には、GHQが区画整理のために入れたブルドーザーが横転し、運転していた人が亡くなりました。取り壊しは中止され、塚はそのまま残ります。

記録に残る出来事と、あとから結びつけられた解釈。この伝説には両方が混ざっています。それでも、これだけの出来事が同じ一角に集まり、人が手を合わせ続けてきたという事実そのものには、重みがあります。

『帝都物語』が広げた将門像

将門の呪いを現代の日本人に刻みつけたのは、荒俣宏さんの『帝都物語』でしょう。

1985年から書き継がれたこの長編は、東京という都市そのものを主人公にした物語です。魔人・加藤保憲が、地下に眠る将門の怨霊を呼び覚まし、帝都を滅ぼそうとする。関東大震災までもが、その企ての一部として描かれました。

1988年には映画にもなり、大手町の地下で将門の力が渦を巻いているという絵が、多くの人の頭の中に残りました。今回の噂がこれほど速く広がった土壌は、40年前に耕されていたことになります。

『VIVANT』が映した神田明神

将門を祀る神社は、いま日曜の夜にも映っています。

『VIVANT』に繰り返し出てくるあの神社が、神田明神です。乃木憂助が参拝し、境内で人と会い、シーズン1の最終話では守りたかった人たちをそこで抱きしめました。記録に残せない別班の合図が、赤い饅頭という素朴な形で置かれる場所でもあります。

『帝都物語』の将門が「呼び覚ましてはならない力」だったのに対して、こちらの神社は、命がけの仕事を終えた人が帰ってくる場所として描かれていまする。

祟りとして恐れるのか、守る神として頼るのか。同じ存在に対して、二つの顔を作っているのは私たちの側です。

恨みを抱いて亡くなった存在は、たしかに祟る

ここからは、霊的に見るとどう見えるのかを書きます。

強い無念を抱えたまま亡くなった存在が、生きている人に働きかけること。これは実際にあります。

体を離れても、思いはそのまま残るからです。恨みを抱いたまま死ねば、恨みを抱いたまま存在し続ける。それが縁のある人に触れれば、その人の判断は狂い、気分は沈み、体調まで崩れることがある。

ですから「祟りなどあるわけがない」と切って捨てるつもりはありません。あります。

ただし、その力が届く範囲には、はっきりとした限界があります。

雨を降らせる力

雨を降らせているのは、海から昇った水蒸気と、上空の寒気と、大気の流れです。地面を揺らしているのは、気の遠くなる時間をかけてぶつかり合ってきたプレートの力です。

積乱雲ひとつが抱えるエネルギーは、原子爆弾いくつぶんにもなります。マグニチュード5.9の地震が解き放つ力は、さらにその比ではありません。

人の想いは、人に届きます。けれど、地球の重さを動かす桁には、まるで足りない。ひとりの人間の恨みが大地を操れるのなら、この世はとうの昔に壊れています。

それでも人が「祟り」と結びつけたくなるのは、恐怖がそちらへ引っ張るからです。

祟り神は、恐れられることで大きくなる

祟り神と呼ばれる存在には、共通する性質があります。自分を実際より大きく見せることです。

たまたまの不運も、季節の災いも、「これは自分の仕業だ」という顔をして受け取っていく。人が怯えるほど、その存在は権威を増していきます。恐怖が、そのまま供物になるのです。

法句経に、こういう言葉があります。
怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。
恐れながら祀るという行いは、怨みに怨みで応え続けることに近づいていきます。相手を恐ろしいものとして扱いつづけるかぎり、相手はその姿から出られません。

将門は千年のあいだ関東の人々に慕われ、神田明神に祀られ、手を合わせられてきました。

その存在に塚の上でふざければ、その報いはその人に返ります。千年のあいだ人が祈りを置いてきた場所には、それだけの想いが積もっているからです。そこへ嘲りを投げ込めば、投げた本人がそれを受け取ることになる。起訴という形で現実の責任を負うことになったのも、返りのひとつの現れ方でしょう。

では、災害は何が起こしているのか

まず、自然の力です。そこに、私が見ているものをもうひとつ加えます。

土地には、そこで暮らした人々の想念が積もります。喜びも、祈りも、怒りも、諦めも、その場所に染み込んでいく。人が多く集まった土地ほど、その層は厚くなります。

江戸から東京へ、この土地には途方もない数の人が暮らしてきました。大火があり、震災があり、空襲があり、そのたびに大勢の人が無念のまま亡くなっています。それに加えて、毎日の暮らしから吐き出される焦りや苛立ち、競争や孤独も、休むことなく降り積もっている。

その層は、自然の力を呼び込む引力のように働きます。雨や地震そのものを作り出すわけではありません。けれど、どこに、どんな形で現れるのかという出方には、影を落とします。

今回の災害を誰か一人の恨みのせいにしても、明日は変わりません。変えられるのは、これから自分たちが何を積み上げるかのほうです。

今日からできること

  • 水と食料、明かり、避難先の確認を今週のうちに済ませる。霊的な話をどれだけ深めても、備えの代わりにはなりません
  • 塚や神社を訪ねるときは、そこが人の眠る場所だと思って足を運ぶ。撮影を目的にしない
  • 「祟りだ」という噂を面白がって広げない。恐怖は、恐れられる存在をいっそう大きくします
  • その日に湧いた怒りや恨みを、眠る前に手放す。あなたが出す想いも、この土地に積もる一部です
  • 災害で亡くなった方へ、名前を知らなくても短く手を合わせる。分かる言葉で語りかけることが、いちばんの供養になります
首都圏の空を見上げて落ち着かなくなる日は、これからもあるでしょう。

それでも私たちが向き合えるのは、この土地にこれから何を積み上げるのかという一点です。祈りを積むのか、怒りを積むのか。今日の自分が決められます。

どうか備えを整え、心を鎮め、身近な人にやさしくしてください。あなたの一日の想いが、この街の空気を変えていきます。あなたとご家族に、幸多き日々がありますように。

地震や大雨の背後にある霊的な流れについては、地震・噴火・自然災害の霊的意味完全ガイド|大地の声を聴き、恐れではなく備えるで順を追って読めます。

首塚と地震の言い伝えはどこから来たのか

将門と地震が結びついたのは、大正12年の関東大震災からです。

それ以前の塚は、地震と縁のない場所でした。

鎌倉時代の徳治2年、西暦1307年に、時宗の遊行二祖真教上人が将門に蓮阿弥陀仏の法名を贈り、自ら筆をとった板碑を塚の上に建てています。

延慶2年、1309年には神田明神に将門の霊が奉祀されました。

七百年以上のあいだ、塚は鎮めるための場所として手を合わせられてきたのです。

明治7年には、朝廷に逆らった人物を東京の中心で祀ることがはばかられ、将門は神田明神の本殿から摂社へ移されました。

本殿に戻ったのは昭和59年です。

塚のほうは明治以降、大蔵省が管理する土地になりました。

震災後に仮庁舎を建てようとして起きた出来事は、先に書いた通りです。

そのあと昭和35年に将門塚保存会が結成され、昭和46年に東京都の旧跡に指定されました。

令和2年から3年にかけては、神田明神創建1300年の記念事業として第六次の改修が行われ、いまの姿になっています。

ここで、史実と伝承を分けておきます。

板碑の建立、神田明神への奉祀、鎮魂碑、保存会の結成、都の旧跡指定、改修工事。ここまでは記録に残る事実です。

一方で、地震そのものを将門が起こしたという記録は、どの時代にも見当たりません。

順序を思い出してください。

先に震災があり、そのあとで塚が掘り返され、不幸が続いた。

塚を騒がせたから地震が来た、という言い方は、この二つの出来事の順番を入れ替えたところから生まれています。

大きな災いに理由を求める心が、目の前にあった塚へ向かった。それが言い伝えの出発点でした。

人の心のはたらきとしては自然なことです。ただ、事実の順序だけは覚えておいてほしいと思います。

将門の霊は何を守っているのか

大手町のあの一角に立って、霊的に見えるものをそのまま書きます。

先に届いてくるのは怒りではなく、東国の民の側に立ち続けた武人の気概です。

重い税に苦しむ人々のために立ち上がり、志半ばで倒れた。

その思いは千年を経ても、この土地に暮らす人々の暮らしへ向いています。

彼が守っているのは自分の名誉ではなく、この土地で生きる人たちです。

江戸の街は、将門を封じるためではなく、将門とともに築かれてきました。

神田明神は江戸総鎮守として街の北東を守り、塚は皇居のすぐそばで千年の時を刻んでいます。

人が手を合わせ、神輿が詣で、改修のたびに新しい花が供えられる。

そうした営みの積み重ねが、この都市の見えない守りになっているのです。

祟り神は恐れられることで大きくなると、先に書きました。

守り神は、感謝されることで力を増します。

怯えて近づく人が減り、礼を伝える人が増えるほど、将門の霊は守る側に力を注げるようになります。

では、参拝するときに何を思えばよいのか。

願い事より先に、礼を言ってください。

この土地を守ってくれてありがとう。それだけで十分です。

スマートフォンを構える前に一礼をする。塚の上に登らない。大声を出さない。

墓所を訪ねるときと同じ振る舞いを心がければ、それで十分に礼が通ります。

恐怖を持ち込まないことも大切です。

怖がりながら手を合わせると、その恐れが相手に届いてしまいます。

穏やかな気持ちで、短く、心を込めて。それが一番よく届きます。

今日できる一歩を一つだけ挙げます。

大手町まで行かなくてもかまいません。

あなたが住んでいる土地の神社へ足を運び、この土地に住まわせてもらっていることへの礼を伝えてください。

そのついでに、家の備蓄と避難先をもう一度確かめる。

見えない守りと、目に見える備え。両方を整えた人が、災いのときに一番落ち着いていられます。

将門の霊が東国の民を思ったように、私たちも自分の土地を思う。

そこから、守りは始まります。

よくある質問

将門塚に参拝してもよいのでしょうか

はい、どなたでも参拝できます。

塚は将門塚保存会が管理し、日輪寺の檀徒は毎年2月14日に慰霊を続け、神田祭のときには神輿が塚に詣でています。

平日の昼には、近くで働く人が手を合わせに立ち寄る姿も珍しくないはずです。

守るべきことは、塚に登らない、大声を出さない、供え物を勝手に動かさないという当たり前の礼儀だけです。

願い事より先に、この土地への礼を伝えてから帰ってください。

地震が起きるたびに将門の話が出るのはなぜですか

始まりは関東大震災です。

震災の後に塚を掘り返して不幸が続いたという記憶が、地震と将門を一組にして人々の頭に残りました。

そこへ昭和60年の『帝都物語』が、帝都を揺るがす怨霊という将門像を広げています。

大きな揺れが来ると、人は理由を求めます。その求めに、よく知られた物語が応えてしまうのです。

地震を起こしているのは地殻の力であり、将門の意思とは別のものです。

話題になった日は、噂を広げる代わりに、備えを一つ確かめる日にしてください。

将門と成田山の関係は本当ですか

史実として記録が残っています。

天慶3年、西暦940年に、朱雀天皇の命を受けた寛朝僧正が下総国で将門調伏の不動護摩を修し、その後に開かれたのが成田山新勝寺です。

このため、将門を祀る神田明神や築土神社の関係者のあいだでは、成田山への参拝を避ける習わしが今も残っているとされています。

昭和51年のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』は将門が主人公だったため、出演者がその年の成田山の節分豆まきへの参加を見合わせたという例も残っているほどです。

霊的に見れば、千年前の敵味方を今の私たちが引き継ぐ必要はないと私は考えています。

成田山の不動明王も、将門の霊も、いまはこの土地に生きる人を守る側に立っています。

どちらへ行くときも、感謝の心で手を合わせてください。

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