朝のニュースを開けば、誰かが誰かを傷つけた話が流れてきます。
SNSをのぞけば、見知らぬ人同士が口汚く言い合っている。
こんな世界に生まれてきて、なぜ自分はここにいるのだろうかと、ふとため息をつきたくなる瞬間が、誰にでもあるはずです。
けれども、その重たい問いの奥には、ちゃんと意味があると私は考えています。
この世は決して美しいだけの場所ではなく、むしろ泥沼のような側面を持っている。
そのうえで私たちは、あえてこの場所を選んで生まれてきたのだと、霊的な視点では受け止められています。
この世は泥沼のような場所だという前提
美しい花畑のような世界をイメージして、この地上に降りてきた魂は、おそらくほとんどいません。
むしろ汚れも争いも知っている世界に、もう一度行ってみようと腹をくくった魂が、人として生まれてきています。
犯罪のニュース、人をおとしめる言葉、理不尽な出来事。
こうしたものが目に入るたびに、心が冷えていくのは自然なことです。
ただ、その冷えた感覚こそが「自分はこの世界に染まりきりたくない」というサインでもあります。
痛みを感じる感性が残っているうちは、まだ大丈夫だということです。
お釈迦様が蓮の花を愛された理由
お釈迦様は、泥の中から伸びてきて美しく咲く蓮の花を、とても大切にされたと伝えられています。
清らかな川のほとりに咲く花ではなく、わざわざ泥沼に根を張る花を選ばれたところに、深い意味があります。
蓮は、きれいな水の中では育ちません。
濁った泥があってこそ、あの透き通った花びらを開きます。
つまり汚れた環境の中でこそ、清らかさが際立つという生き方のお手本を、自然のかたちで見せてくれているわけです。
私たちもまた、整った環境の中で美しく咲くために生まれてきたのではありません。
むしろ困難の多い場所で、どこまで自分らしい花を咲かせられるかを見るために、ここに来ています。
過酷な環境を選んで生まれてきた魂たち
恵まれた家庭、優しい友人、健康な体。
こうした条件がそろっていれば、心穏やかに生きるのはそれほど難しくないかもしれません。
けれども、現実にはそうではない状況に置かれている人のほうが、実は多いのです。
厳しい家庭環境、人間関係のもつれ、慢性的な病気や経済的な苦しさ。
こうしたものは、罰として与えられているわけではありません。
生まれる前に魂自身が「この条件で、もう一度学んでみたい」と選んできた課題と言われています。
難しい問題ばかりの試験用紙を、わざわざ選んで持って降りてきた。
そう考えると、自分がいまここで苦しんでいることにも、少し違う光が差してきます。
心を清らかに保つということ
暗いニュースや嫌な出来事に触れ続けていれば、心が荒れてくるのは当たり前です。
悪く言えば、それは環境のせいでもあります。
けれども、それを言い訳にしないところに、人としての面白さがあります。
清らかさとは、世間を知らない無垢さのことではありません。
世の中の汚れを知った上で、それでも自分の中に静かな場所を持ち続けること。
そういう清らかさのほうが、はるかに強い光を放ちます。
嫌な出来事に出会ったあとに、それでも誰かに優しくできるか。
裏切られた経験のあとでも、新しい人をもう一度信じてみる勇気があるか。
蓮の花の生き方とは、そういう日々の選択の積み重ねだと感じます。
環境への不満を、自分の花に変えていく
こんな環境さえなければ、あの人さえいなければという気持ちは、誰の心にも湧いてくるものです。
その思いを否定する必要はありません。
ただ、不満を語って終わるのか、それとも自分なりの花を咲かせる方向にエネルギーを使うのかは、選ぶことができます。
どんな土壌に置かれていても、種は種としての仕事を果たそうとします。
人もまた、置かれた場所で、自分にしか咲かせられない色の花を持っています。
環境のせいにする時間を少しずつ減らして、その分を「では、自分はどう生きたいのか」に振り向けてみてください。
今日からできること
・朝起きたら、今日の自分の機嫌は自分で取ると一度つぶやいてみる
・嫌なニュースに触れたら、関係のある人ひとりだけ思い浮かべて、その人の無事を静かに祈る
・人の悪口の輪に入りそうになったら、ひとつだけその場から離れる口実を用意しておく
・寝る前に、その日に出会った優しい場面を一つだけ思い出してから眠る
・自分の中の蓮の花を想像し、どんな色で咲かせたいかを月に一度書き留めておく
応援いただいたあなたに、幸せが届きますように祈ります
このブログでお伝えしているのは、魂の旅路への入口となる話です。
もっと深く学びたい方、満月の一斉ワークに加わりたい方は、スピリチュアルスクールでほぼ毎日メッセージをお届けしています。
ブログには書けない霊的な実践も、ここでお話ししています。
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