南アフリカのネルソン・マンデラ氏は、こんな言葉を遺しました。「人は肌の色や生い立ち、宗教を理由に他人を憎むようには生まれついていない。人は憎むことを学ぶのだ。憎しみを学べるのなら、愛も学べる」
霊的な世界の側から眺めても、まったくその通りだと感じます。私たちの魂はもともと愛そのものとして存在しており、憎しみや恐れ、偏見といったものは、地上に降りてから後天的に身につけた衣のようなものに過ぎません
赤ちゃんの目に映る世界には敵がいない
生まれたばかりの赤ちゃんを思い浮かべてみてください。肌の色も国籍も宗教も関係なく、目が合えば微笑み、誰かが抱き上げれば安心して身を委ねます。隣にいる子が何を信じているか、どんな家庭で育っているかなど、まったく気にしていません
砂場で遊ぶ幼い子どもたちは、出会って数分後にはもう手をつないでいます。言葉が通じない外国の子とでも、ジェスチャーひとつで仲良くなれてしまう。あの姿こそ、人間が生まれもって携えてきた本来の状態です
イエスは「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない」と説きました。幼子の純粋さの中には、すでに天国のかけらが含まれているということなのでしょう
大人になるにつれて学んでしまうもの
では、私たちはいつから他人を区別し、警戒し、ときに憎むようになるのでしょうか。それは必ず、誰かから情報を与えられた時点から始まります
「あの国の人は怖い」「あの宗教は危ない」「あの肌の色の人とは関わらないほうがいい」。家庭の食卓で、学校の教室で、テレビの画面の向こうから、私たちは少しずつそうした言葉を吸い込んでいきます。最初は違和感があったはずなのに、繰り返し聞かされるうちに「そういうものだ」と思い込んでしまう
大人になった私たちが抱える敵意や偏見の大半は、よくよく辿っていくと、自分で考え抜いた結論ではなく、どこかから受け取った借り物の感情であることに気づかされます
魂の真実は今も愛のままでいる
大切なのは、どれだけ憎しみを学んでしまった人でも、その奥にある魂の真実は何ひとつ傷ついていないということです。表面に泥がついただけで、内側の光はもとのまま輝いています
霊界から人を眺めると、その光がはっきり見えます。憎しみに満ちた言葉を吐いている人でも、その内側では小さな子どもが泣いていて、本当は誰よりも愛されたがっていることが伝わってくるのです
だからこそ、霊的な学び直しが意味を持ちます。後天的に身につけたものなら、後天的に手放すこともできるからです
愛に戻る道のりは「思い出す」作業
愛を学び直すというと、何か新しい修行を始めなければならないように聞こえるかもしれません。けれども実際にやることは、新しい何かを手に入れることではなく、もともと自分の中にあったものを思い出す作業に近いものです
頭の中に積もった「あの人はこういう人だ」「この世界はこういうものだ」というラベルを、一度そっと脇に置いてみる。すると、ラベルの下から、誰かを見ただけで自然に湧き上がってくる温かさが顔を出します。それが、生まれたときから携えてきた本来の自分の感覚です
今日からできること
1.朝、目覚めたときに、ささやかな何かに「ありがとう」とつぶやいてみる。布団のぬくもり、外の鳥の声、台所の水の音。小さな感謝が、愛の回路を毎日少しずつ開いていきます
2.週に一度でいいので、自然の中に身を置く時間を作る。木々や風、海や空は、人間が後天的に学んだあらゆる偏見と無縁の場所です。そこにいるだけで、本来の波長に戻りやすくなります
3.苦手な相手のことを思い浮かべて、「あの人が幸せでありますように」と一度だけ祈ってみる。最初は抵抗があって構いません。続けるうちに、相手より先に自分の中の何かが軽くなっていくのが分かります
4.自分自身を許すことを忘れないでください。他人を愛するための土台は、まず自分への愛です。過去の過ちを抱えている人ほど、一日の終わりに「今日もよくやったね」と心の中の自分に声をかけてあげてください
5.愛を体現した先人の伝記や言葉に触れる時間を持つ。マザー・テレサ、マンデラ氏、賢治、八木重吉。誰でも構いません。本物の愛に触れた魂は、自分の中の同じ周波数を思い出していきます
憎しみが学んだものなら、愛もまた学び直せます。そして魂の側から見れば、それは新しい学習ではなく、長い旅から我が家に帰ってくる懐かしい道のりなのです
応援いただいたあなたに、幸せが届きますように祈ります
このブログでお伝えしているのは、魂の旅路への入口となる話です。
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