幼い命が失われ、その背後に虐待があったのではないかと報じられるたびに、私たちの胸は深く痛みます。なぜ大人が、もっとも守られるべき小さな子どもにこれほどの仕打ちをしてしまうのか。理性ではとうてい理解できない出来事に、言葉を失う方も多いのではないでしょうか。きょうは、こうした痛ましい出来事の奥に、霊的な視点から何が横たわっているのかを、静かに考えてみたいと思います。
先日も、ある地域で幼い子どもが亡くなり、その身体に虐待を受けたとみられる痛ましい状況が見つかったと報じられました。詳しい経緯はここではあえて記しませんが、まだ何年も生きていない小さな子どもが、長い時間にわたって苦しみのなかに置かれていたことを思うと、ただただ胸が締めつけられます。こうした出来事に接したとき、私たちはどのように受けとめればよいのでしょうか。
虐待の奥に潜む霊的な背景
もちろん、こうした出来事の手前には、加害者となってしまった人の心の問題があります。けれども霊的な視点から見ると、その背後にはもうひとつ、悪霊と呼ばれる存在の暗躍があると私は考えています。悪霊と呼ばれる闇の存在は、たしかに私たちの生活のすぐ後ろにいて、人々の目には触れないところで、ひそかに影響を与えているのです。
そうした存在は、心の弱っている人や、彼らと波長の合うような心の持ち方をしてしまった人に寄り添い、よくない方向へと働きかけます。そうして、もともとあった悪い傾きにいっそう拍車がかかり、ふだんの人間であればとうていしないであろう振る舞いへと進んでいってしまうのです。すべてを個人の意志だけのせいにするのではなく、その奥にこうした見えない作用があるのだと知っておくことには、意味があると私は思います。
闇が気づかれることを嫌う理由
闇の存在は、自分たちが背後で暗躍していることを人々に気づかれるのを、何より嫌います。そのためにこの世へ唯物的な思想を広め、霊的なことを語る者を、まるでおかしな者であるかのように思わせようとします。霊の世界などないと人々が信じ込んでしまえば、彼らは誰にも気づかれずに動くことができるからです。
唯物論を掲げる共産主義の国々で、信じられないような人権の弾圧や粛清がくり返されてきたのも、そこが闇の存在にとって暗躍しやすい土壌だからなのだと私は見ています。彼らは、自分たちが気づかれないまま活動できることを望んでいるのです。これはおとぎ話や昔話のたぐいではなく、光と闇の戦いは、いまこの地上で実際に起きていることなのです。
光か闇か、私たちの選択
こうした闇の存在が動く一方で、この世に光を広めようとする勢力もまた、確かに存在しています。地上は光と闇がせめぎ合う場であり、私たち一人ひとりは、そのどちらの側につくのかを選ぶ存在なのです。さて、あなたはどちらを選ぶでしょうか。
人々の選択の積み重ねによって、この世は闇に沈んでいくのか、それとも光へと帰っていくのかが分かれていきます。闇は確かにあります。けれども闇は、光に照らされることで消えていく性質のものでもあります。多くの人が光を選んでいったなら、この世はやがて光に満ちた世界へと帰っていくのです。
まだ闇の体験を続けたいのか、それとも光へと帰る道を選ぶのか。どうか一度、ご自分の魂に問いかけてみてください。魂の学びのために、まだ闇が必要だと選ぶ人もいるでしょう。もう自分には必要なくなった、これからは光へ進んでいくと決意する人もいます。そして、いまだどちらとも決めかね、迷いのなかをさまよっている魂が、おそらく大半なのかもしれません。
それでも、もし光を選んだなら、ほんの一歩でよいので足を進めてみてください。ときには立ち止まったり、引き返したくなったりすることもあるでしょう。けれども、そうした歩みをくり返しながらも、私たちはいずれ前へと進んでいく者になっていきます。なぜなら私たちは本来、光の子らであるからです。失われた小さな命と、いまも痛みのなかにいる魂のために祈りながら、私はそう信じています。
虐待の背後にある見えない影については、家族・親子のカルマ完全ガイドでもあわせて読めます。
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