川を渡り終えた男が、その筏を背負ったまま陸を歩いていきます。
お釈迦様は、その姿を「愚かだ」と言いました。
筏は川を渡るための道具です。
渡り終えたなら岸に置き、身軽になって先へ進めばいい。
ところが人は、担いだまま歩き出します。
しかもこの譬えは、机の上でこしらえた訓話ではありません。
アリッタ(阿梨吒)という、ひとりの修行僧の頑固さが引き金でした。
筏のたとえとは(蛇喩経・中部経典第22経)
筏のたとえとは、川を渡り終えた筏を背負ったまま歩く愚かさを説いた、お釈迦様の譬え話です。「筏の喩え」「いかだのたとえ」とも書かれ、パーリ仏典の『蛇喩経』(中部経典第22経、Alagaddūpama Sutta。別名『筏喩経』『阿梨咤経』)に収められています。
教えは向こう岸へ渡るための道具であって、到達地点ではない。これがこの譬えの主張です。
紀元前5世紀ごろ、アリッタという修行僧が「心を制御できていれば欲にふけってもよい」と主張したことをきっかけに説かれました。
教えをねじ曲げた修行僧、アリッタ
アリッタは、こう言い出しました。お釈迦様は欲望が修行の妨げになると説かれるけれど、心さえきちんと制御できていれば、欲にふけっても妨げにはならないはずだ、と。
仲間の修行僧たちは必死に止めます。
それは教えを曲げている、師は一貫して欲は人を滅ぼすと説いてこられたではないか、と。
それでもアリッタは譲りません。
自分の読み方こそ正しいと言い張り、周りが何を言っても首を縦に振らない構えです。
呼び出された彼に、お釈迦様は珍しく厳しい言葉を向けました。
「愚か者よ、私がいつそのような教えを説いたというのか。私はあらゆる手立てを使って、欲望は修行の障りになると説いてきたではないか」ここで注目したいのは、叱責の中身です。
お釈迦様が問題にしたのは、アリッタの欲そのものではありませんでした。
教えを取り違えたまま、その解釈を握りしめて手放さない姿勢のほう。
一件の勘所は、そこにあります。
蛇の尻尾を掴んだ人は、必ず噛まれる
そこでお釈迦様は、まず蛇の譬えを説かれました。毒蛇を捕まえようとして、胴や尻尾を掴んだらどうなるか。
蛇は身をひるがえして噛みつき、掴んだ者は命を落とすか、深い傷を負います。
捕まえるなら二股の杖で首を押さえ、首の付け根をしっかり握らなければならない。
教えも同じだ、というのです。
自分に都合よく解釈して振り回せば、その教えは必ず持ち主に牙を向けます。
「正しく心を制御していれば欲にふけってもいい」というアリッタの読み方は、まさに尻尾を掴む手つきでした。
宗教の名のもとに人が人を傷つけてきた歴史を並べてみると、この譬えの射程の長さに驚かされます。
掴み方を誤った教えは、持ち主ごと毒に染めていくのです。
正しく掴んだ人が、次につまずく場所
お釈迦様の話は、ここで終わりません。二段構えの、二段目に入ります。
首を正しく掴むように教えを正しく理解し、無事に向こう岸へ渡ったとしましょう。
そのとき、渡り終えた筏をどうするか。
「これは私のものだ」「これこそが絶対だ」と抱え込んで、担いだまま暮らしてはならない。
お釈迦様はそう言い切られました。
間違って理解するな、が一段目。
正しく理解しても囚われるな、が二段目です。
やっかいなのは、二段目のほう。
誤読は誰かに指摘されれば直せますが、正しさは、誰も指摘してくれません。
二十世紀の哲学者ヴィトゲンシュタイン(ウィトゲンシュタイン)も、自著の最後に似たことを書き残しました。
「私の命題を理解した者は、それを踏み台にして乗り越えたとき、それらが無意味だったと気づく。梯子を登りきった者は、その梯子を投げ捨てなければならない」(『論理哲学論考』1921年、命題6.54)梯子を投げ捨てる。
二千五百年前の筏と、そっくり同じ形をしています。
真理へ向かうための道具は、たどり着いた場所では役目を終えます。
後の世は、筏を人の背に括りつけた
では、その後の仏教はどうなったでしょうか。教えは経典になり、経典は権威になり、やがて「この教えを信じることこそ尊い」という一点が中心に据えられました。
悟りに至るための手段だったものが、いつのまにか到達地点にすり替わっていく。
筏を降ろすどころか、人々の背に括りつけてしまったのです。
括りつけられた側は、それが荷物だと気づけません。
降ろすという発想そのものが、選択肢から消えるからです。
世界各地で宗教が争いを生んできた理由も、ここに行き着きます。
信じている中身が違うから争うのではありません。
「握りしめていることこそ最も尊い」と教え込まれた者どうしが向き合うから、どちらも手を開けなくなるのです。
1929年8月、クリシュナムルティは、自分を「世界教師」として担ぎ上げていた星の教団(Order of the Star)を、オランダのオメンで自ら解散させました。
数千人の会員を前にした演説で、彼はこう述べています。
「真理は道なき大地である。いかなる道によっても、いかなる宗教、いかなる宗派によっても、そこへ至ることはできない」(1929年、星の教団解散演説)用意された道を歩くかぎり、その道の形しか見えません。
彼が解散という手段を選んだのは、組織そのものが巨大な筏になりきってしまうと見抜いたからでしょう。
霊的に視ると、信仰は途中までしか運んでくれない
私のところには、長く特定の教団に身を置いてきた方が相談に来られることがあります。ある相談者は、三十年その教えに従い、朝夕の勤めを一日も欠かしませんでした。
それでも心の底が晴れないと言われるのです。
自分には何が足りないのでしょうか、と。
霊的に視ると、その方の周りには、言葉がぎっしりと積み上がっていました。
教えの言葉、指導者の言葉、自分に言い聞かせてきた言葉。
守るべき正しさで壁ができあがっていて、ご本人はその内側から外を眺めている。
足りないのではなく、多すぎたのだと思います。
私はこうお伝えしました。
三十年続けられたその誠実さは、間違いなくあなたを川の向こう岸まで運びました。だから、そろそろ降ろしてもいいのです、と。
手放すとは、捨てることではありません。
握りしめるのをやめる。それだけです。
霊界から見れば、地上の教義の違いは、着ている服の色の違いに近いもの。
魂が持ち帰るのは、どの教えに属していたかではなく、その教えを使って何を学び、誰にどれだけ優しくできたかです。
筏を降ろすために、今日からできること
1. 握りしめているものを書き出す
宗教にかぎりません。信念、肩書き、正しい生き方の型、家族への役割。手放すのが怖いと感じるものを、紙に並べてみてください。2. 「これは道具か、目的か」と一度だけ問う
答えが出なくてもかまいません。問うた瞬間に、握力はいくらかゆるみます。3. 立場の違う人の話を、最後まで聞く
聞きながら反論を組み立てない。考えるのは、相手が話し終えてからで十分に間に合います。4. 教えを暮らしで使い、家族への態度の変化を見る
渡し舟としてきちんと働いている教えなら、理屈より先に、日々の接し方のほうが変わっていきます。5. 手放しても消えないものを確かめる
教義を脇に置いても残る温かさがあるなら、それがあなたの魂そのもの。消えないのですから、抱え込む必要もありません。両手が空いたとき、次の岸が見えてくる
筏を捨てよ、というのは、教えを軽んじろという意味ではありません。お釈迦様はまず、筏をきちんと組み、正しく漕げと説かれました。
そのうえで、着いた岸では降ろしなさいと言われた。
順番があります。
今あなたが握りしめているものも、ここまで運んでくれた立派な筏でしょう。
感謝を込めて、岸に置いていい。
両手が空いたとき、はじめて次の岸が見えてきます。
あなたの魂は、どんな教えよりも自由です。
その自由を思い出す一日になりますように。
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