ある報道をめぐって、世間が真っ二つに割れていました。
タイムラインを開けば、どちらが悪いのか、誰の落ち度なのかと、多くの人が誰かを名指ししたがっている。
けれど私は、その熱を帯びた空気そのものに、ずっと引っかかっていました。
誰かを裁く前に、少しだけ立ち止まって眺めてみたい景色があります。
それは、私たちひとりひとりの内側に、まだ癒えないまま眠っている古い傷のことです。
癒えない傷は、忘れたころに牙をむく
傷は、放っておいても消えてはくれません。
表面に薄いかさぶたができて、忘れたつもりでいるだけ。
その下では、いつか誰かに触れられる日を待っている痛みがあります。
そして思いがけない場面でそこに触れられた瞬間、私たちは自分でも驚くほど大きく反応してしまう。
ふだんは穏やかな人が、たった一言に烈しく噛みつく。
誰かに近づかれただけで身体がこわばり、思わず拒んでしまう。
周りを自分の思いどおりに動かさずにいられない。
そのどれもが、古い痛みが本人の意思を追い越して、手足を動かしている姿だと私は見ています。
悪い人だから、ではありません。
まだ癒えていない人が、そこにいるというだけのことです。
心の「動作不良」は、なぜ起きるのか
私はこれを、心の動作不良と呼んでいます。
歯車のどこかが歪んだ機械を思い浮かべてみてください。
ふだんは問題なく回っている。
ところが、ある角度から負荷がかかった途端、ガチャンと引っかかり、隣の部品まで巻き込んで壊してしまう。
人の心も、これと同じことをするのです。
癒えていない部分に触れられると、意思とは無関係に、おかしな動きが表に出る。
心理学者のユングは、こんな言葉を残しました。
無意識を意識化しない限り、それはあなたの人生を導き、あなたはそれを運命と呼ぶことになる。
光を当てられなかった傷は、消えてなくなるのではありません。
姿を変えて、外側の出来事として立ち現れてくる。
繰り返してしまう人間関係のもつれも、理由のわからない苛立ちも、その多くは、まだ光の届いていない古い傷が映し出した影なのだと思います。
傷ついた人どうしが、ぶつかるとき
やっかいなのは、動作不良が起きたとき、いちばん戸惑っているのが本人だったりすることです。
そんなに強く反応するつもりはなかった。
相手を傷つけたかったわけでも、けっしてない。
気づけば言葉が飛び出し、場の空気が凍りつき、周りを振り回してしまっていた。
あとになって、自分でも「なぜ、あんなに」と持て余す。
過去の傷は、いつも意識より先に動くのです。
だから私は、こうした出来事を前にすると、どちらが加害者でどちらが被害者か、という線引きに、あまり気が乗りません。
ぶつかったのは、人と人ではなかったのかもしれない。
それぞれが癒えないまま抱えてきた、痛みと痛みだった。
そういう眼で眺めると、景色が少し変わってきます。
実を言うと、私が人を霊的に視るとき、その方が長く背負ってきた古い傷が、そっと浮かび上がって見えることがあります。
今回の件でも、渦中に立たされたお二人を心を澄ませて感じてみると、どちらの内側にも、まだ手当てされないまま残った痛みがありました。
片方だけが傷を負っていた、という話ではないのです。
二つの古い傷が、たまたま同じ場所で触れ合ってしまった。
私には、そう感じられてなりませんでした。
本当に問われているのは、間に立つ者の成熟
そして、もうひとつ忘れてはいけないことがあります。
傷を抱えた人どうしが向き合う場には、本来、あいだに立って場を支える大人がいなければなりません。
二人きりにして、あとは当事者どうしで何とかしなさい。
それでは、傷はぶつかるに決まっています。
段取りを整えるべき人が役目を手放し、伝えるべきことを伝えずにいた。
その小さな不作為が、当事者にとっては深い傷になっていくのです。
表に立った二人だけを責めて幕を引く。
それは、いちばん見つめるべき場所から、そっと目をそらす行為なのだと私は思います。
魂の成熟とは、自分の傷を持て余さない力であると同時に、傷ついた誰かのあいだに立って、場を保っていられる力でもあります。
古い傷と、どう向き合っていくか
では、私たちに何ができるのでしょうか。
遠回りに見えても、いちばん確かな道は、自分の内側に手を当てることです。
今日から始められる、小さな一歩をいくつか記しておきます。
1. 反応の大きさに、立ち止まる。
「どうして今、あんなにカッとなったのだろう」。
その不釣り合いなふくらみの奥に、たいてい古い傷が隠れています。
目の前の相手は、引き金を引いただけかもしれません。
2. 傷を、責める材料にしない。
弱さやみっともなさとして裁くほど、傷はいっそう奥へ隠れます。
「よく今日まで抱えてきたね」と、まず自分自身へねぎらいの言葉をかけてあげてください。
3. かつての悲しみを、きちんと悼む。
何を奪われ、何を諦め、何を飲み込んできたのか。
なかったことにせず、一度ていねいに悲しんでみる。
人は、悼まれた傷からしか回復していかないものです。
4. ひとりで抱えきれないときは、手を借りる。
信頼できる人や、専門家の力を借りることは、弱さではありません。
深い傷ほど、安全な場所で、時間をかけてほどいていくものです。
5. 相手の動作不良に、同じ傷を見る。
誰かの理不尽な反応に出会ったとき、「この人も、どこかで傷ついたのかもしれない」と一呼吸おく。
それは相手を無条件に赦すことではなく、理解へと続く小さな入口です。
あなたが癒えることは、あなただけの救いではない
癒えない傷は、いつか必ず、誰かに向かって暴れ出します。
けれど裏を返せば、自分がひとつ傷を癒すたびに、この世界へ手渡される痛みが、ひとつずつ減っていくということでもあります。
あの報道の当事者たちの胸にも、それを取り巻いて騒ぐ私たちの胸にも、たぶん同じだけの古い傷が眠っています。
裁く声を少しだけ下ろして、まずは自分の内側に、そっと手を当ててみてください。
あなたが癒えていくことは、あなたひとりの救いにとどまりません。
隣にいる人へ、そのまた隣にいる人へと、穏やかな安らぎが伝わっていきます。
あなたの今日が、少しでも温かなものでありますように。
応援いただいたあなたに、幸せが届きますように祈ります
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