恐れられた者ほど、神になった
神社で手を合わせるとき、その相手が、かつて人々に恐れられた祟り神だとしたら、あなたはどんな気持ちになるでしょうか。日本の神社の由来をたどっていくと、生前に深い無念を抱えたまま世を去った人たちが「神」として祀られている例に、何度もぶつかります。
受験のたびに多くの人が手を合わせる天神様も、もとは都を追われ、失意のうちに亡くなった一人の貴族の霊を鎮めるための社でした。
菅原道真、平将門、崇徳天皇。
名の残る祟り神たちは、敬われたから神になったのではありません。
むしろ、怖かったからです。
道真の死後、都では落雷や疫病が続きました。
人々はそれを恨みの祟りと受け取り、その霊を手厚く祀ることで、災いを避けようとしたのです。
恐れられた者ほど、丁重に神の座へと押し上げられていきました。
日本にはもともと、非業の死をとげた人の霊を「御霊」と呼び、ていねいに祀ることで荒ぶる力を鎮めようとする信仰がありました。
恐れそのものを、神という器に納めて折り合いをつける。
それが、この国の祈りのかたちの一つだったのです。
ここで、一つの問いが浮かびます。
なぜ日本人は、恐れる相手まで神にしてしまったのでしょうか。
罰を避ける祈り、ご利益を求める祈り
この問いを入口にして、私は「信仰」という言葉そのものを、もう一度ほどいてみたいと思います。ひとことで信仰と言っても、その内側には、性質のまるで違うものが同居している。
罰を避けたいから祈る人がいます。
ご利益が欲しくて、遠い社まで足を運ぶ人。
怖いから、とりあえず供物を捧げておく。
動機をたどっていくと、その多くは「避けたい」「得したい」という計算に行き着きます。
けれど、そこで一度、立ち止まって考えてみたいのです。
現代でも、その名残はあちこちに見えます。
金運が下がるのが怖いから、財布を買い替える。
厄年だからと、いつも以上に慎重になる。
バチが当たるといけないから、なんとなく手を合わせておく。
どれも、誰の心にも覚えのある感覚ではないでしょうか。
これは、私がこれまで書いてきた、恐怖による支配や、褒美と罰の構造、そして偽りの神といったテーマと、地続きの話です。
罰を怖れて従い、褒美を期待して頭を下げる。
その心の動きは、神社の作法にかぎった話ではありません。
会社でも、家庭でも、私たちはしばしば同じ回路で動いています。
上司に叱られたくないから従い、評価という褒美のために背伸びをする。
祈る相手が神から人へ変わっただけで、心の仕組みはそっくりです。
恐れの信仰は、魂を育てるのか
誤解のないように書いておきます。恐れから生まれた信仰を、「間違っている」と切り捨てたいわけではありません。
災いを恐れ、平穏を願う。
それは、人としてごく自然な感情です。
ただ、一つの問いが残ります。
恐れを動機とした祈りは、その人の魂を育てるのでしょうか。
私自身、これまでたくさんの相談を受けてきました。
その中に、毎月いくつもの神社を巡り、少しでも怠ると悪いことが起きる気がして、どうしてもやめられないという方がいました。
話をうかがううちに見えてきたのは、信心の深さではなく、深い怯えでした。
霊的に見ると、その人を動かしていたのは神への愛ではなく、罰への恐れだったのです。
その方には、まず「行かないと不安だから行く」のを、一度だけ休んでみることを提案しました。
何ごとも起きない数日を過ごして、ご本人がようやく気づきます。
自分を縛っていたのは神様ではなく、自分の中の恐れのほうだった、と。
恐れが薄らいだぶんだけ、その方の表情は少しずつやわらいでいきました。
新約聖書に、こんな一節があります。
「愛には恐れがなく、完全な愛は恐れを締め出します」(ヨハネの手紙一 四章十八節)恐れと愛は、同じ器には収まりません。
罰が怖いから正しくふるまう子どもと、そうしたいから正しくふるまう子ども。
外から見える行いは同じでも、内側で育つものは、まるで違います。
信仰も、これと似ているのではないでしょうか。
祟りを恐れて捧げる祈りと、より善く、より真実に近づきたいと願って捧げる祈り。
手を合わせる姿は同じでも、そこで育つ魂の質は、おそらく別ものです。
恐れを土台にした祈りは、いつまでも「罰されないための取り引き」から抜け出せません。
神様の顔色をうかがい、機嫌を損ねないように身を縮める。
そこには一時の安心はあっても、魂の成長はありません。
一方で、感謝や憧れから生まれる祈りは、その人をゆっくりと押し広げていきます。
見返りを計算しない祈りほど、心は軽くなり、まだ見ぬ誰かへも開いていくからです。
今日からできる、祈りの見直し
では、自分の祈りを、恐れから愛のほうへ少しずつ移していくために、何ができるでしょうか。むずかしい修行はいりません。
今日から試せる、小さな習慣をいくつか挙げておきます。
手を合わせる前に、いま自分を動かしているのは「怖れ」なのか「感謝」なのかを、一度言葉にしてみる。
願いごとを「悪いことが起きませんように」という回避のかたちから、「今日もありがとうございます」という肯定のかたちに置き換える。
ご利益を数える代わりに、すでに受け取っているものを三つ書き出す。
罰が怖くて続けている習慣があれば、「これを愛から選び直せるだろうか」と、自分に問う。
祈りの最後に、見返りを求めない一言を添える。
たとえば、顔も知らない誰かの幸福を、そっと願ってみるのです。
祟る神を祀ってきた日本人の歩みは、恐れとどう付き合うかを、長い時間をかけて探ってきた記録でもあります。
恐れを神に変えて鎮めるのか。
それとも、恐れの向こう側にある愛や真理へ、少しずつ心を向けていくのか。
その選択は、いまを生きる私たち一人ひとりにも開かれています。
どちらの祈りを選ぶかは、誰かに決められることではありません。
ただ、自分の祈りの根がどこにあるのかを一度のぞいてみると、信仰というものの見え方が、少し変わってくるはずです。
あなたが手を合わせるとき、その祈りを動かしているのが、避けたい何かへの恐れではなく、近づきたい何かへの憧れでありますように。
そして、その祈りが、あなたの魂を育てていきますように。
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