2017年9月9日土曜日

愛と幸・不幸の分かれ


愛というものは、人を幸せの絶頂にもするし、不幸のどん底に投げ落とすものでもあります


愛されていると感じる時は、人は幸せを感じるでしょう

そして人に愛を与えていって、その人が幸せになる姿を見ても、人は喜びを感じます

つまり、愛を受け取った時、愛を与えてプラスとなった時には、愛は幸せの元となります

逆に、人から愛を奪われたと感じる時、愛を与えたのに裏切られたと感じた時には、人は不幸な感覚に襲われます

愛は目には見えませんが、実在のエネルギーであり、愛に満ちていると、人は満たされて幸せを感じるようになり、愛の不足を感じると、不幸な感覚が増していきます

仏教では渇愛という言葉があります

喉の渇いたものが、水を求めるように、得ようと必死な欲望です

人から一生懸命に愛を得ようとするのも、この渇愛と言ってよいでしょう

たとえば好きな異性がいて、その人が自分を愛してくれるなら、無上の喜びを得られるのですが、その人が別な人を好きで、自分にその愛が向いてくれないと思ったときに、苦しみを感じるでしょう

あるいは、愛し合って結婚した夫婦が、別な人と不倫したりするなどして、愛が他人に向けられると、苦しみの元となっていきます

他には、愛情を注いだ子供たちが、次々と巣立っていくことに、寂しさと悲しさを簡易jることもあるはずです

未成年の人であれば、両親が別な兄弟を愛していて、自分に愛情が向けられるのが少ないと感じると、苦しみを受けるでしょう

そのように、人から愛を得ることを求めすぎると、苦しみの原因となってしまいます

それゆえに、仏教では諸行は無常であるから、執着を断てと教えたのです

諸行無常というのは、この世の物事は、常にとどまることなく、たえず移り変わっていくものだということです

いつまでもとどめておこうと執着することで、苦しみを生むと説きます

愛は得ようとして執着すると苦しみのもとになりますので、人に与えていくことで喜びを感じ、愛情を注いでいくことを喜びとし、見返りを求めないようにするのが大切です

あまりに相手から愛の見返りを求めていると、そこが苦しみの元となっていきます

求めすぎずに、淡々と太陽の光のように、降り注ぎ続ける愛が理想なのだと思います

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1 件のコメント:

  1. 昔は無意識に人からの愛を得ようと思って苦しんでいました。
    ある日、自分は人から愛を得なくても、自分自身の愛に満ちているのだと気がつきました。それは私だけではなくて他の人も実は同じなのだと思います。自分を愛し、他人を愛することは全ての原点にあるような気がします。

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