2014年5月30日金曜日

世界と宗教の大きな二つの流れ



宗教には、神と人との関係において、隔絶論と同一論があります

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はおもに隔絶論の宗教と言っていいでしょう



隔絶論においては、神様と人間とは、かけ離れた存在であり、人間はただ神を畏れて救いを得るために命令に従わなくてはなりません

それゆへ人間の平等が強調され、人が神になることは考えられません

同一論の立場では、人間のうちには神性(あるいは仏性)が宿っていて、修行や認識などによって神様・仏様に近づいていけると考えます

仏教はもちろんそうですが、キリスト教でもグノーシスや、イスラム教のスーフィズム、両者に影響を与えたヘルメス主義などがあたります

同一論からは個人の尊厳や、人権尊重の思想が生まれます

現在の政治の流れとしての、平等を重視する共産主義と、個人の自由を尊重する自由主義との対立は、上記の隔絶論と同一論に源流を持つと言っていいでしょう

このあたりは「ヘルメス主義」の記事に書きました



古代社会においては、自然環境や気候変動によって、容易に人の命が奪われる時代が長く続きました

そのような時代においては神様の恩恵や、逆に怒りの激しい神様というのが思い浮かばれて、人間には到底太刀打ちできない恐れ多い存在としての神様を考えました

圧倒的な力によって人間の生死を左右する存在である神様に恐れを抱きながら、戒律に従って生きていたのがうかがえます

現在でも共産主義では人間平等を重視しますが、強権によって人々を恐怖心によって従わせます

隔絶論が極端までいくと、人間の努力は無くなって来て、戒律に触れぬように、おとなしい囚人のように生きていくこととなります


同一論では、人は神様・仏様へ向かって努力し向上する思想が生まれます

個人が尊重され自由が重視されますので繁栄しやすい体制といえるでしょう

共産主義でも個人の努力が認められないので経済は停滞してしまいますし、自由主義のほうが経済的には繁栄しています

ただ、同一論でも極端に行くと、人間はすぐに神様仏様と一緒と考えるようになって、努力の放棄や、慢心へと落ちてしまうことがあります

仏教では天台本覚思想(すべてのものはすでに悟っている・成仏しているとする思想)に見られます

本覚思想では、人間はもとより悟った存在であるから、修行する必要もなければ戒律も守る必要がない、凡夫は凡夫のままでよいっとする考えが出てきます

似たような思想はスピリチュアル界隈でもよく耳にします

おもしろいことに、神様と人との間が開きすぎている隔絶論でも個人が努力しても無駄だと考えて努力を放棄する考えが出てきますが、その対極である神様・仏様と人間が一緒だとする考えからも修行の必要もないとする思想が生まれます

神様と人との距離が圧倒的に離れていたり、あるいは近すぎたりすることなく、適切であることが人類の向上には必要なことだと思います

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6 件のコメント:

  1. 今日の記事、とても解り易くて感動しています。~☆彡

    人はそれぞれですが、私に取ってはやはり人間は何事も”中道”が成熟した安全確実な道ではないかと、私は自分の経験からも思います。

    だからその中道という非常に深遠なものを説かれたお釈迦様という方の叡智には、私は並々ならぬものを感じる一人なのです。

    そういう方が2500年以上も前に、実際に私達の様に生きた人間として存在されていた事。

    そして生きながら人を超える=佛になるという事を自ら実践証明された方である事に私は素直に感動を覚えるのであります。

    又神を信じる信じないに関わらず、全ての人に通ずる教え=全ての生命が平等である事を説かれた慈愛・慈悲の教えは、現実的な生活を生きる人間には一番試し甲斐のある幸せになる為の方法(の一つ)ではないかと私は思います。

    でも日本に伝わっている仏教は、中国経由で伝わった時点でかなり本来のお釈迦様の教えから遠ざかってしまっているものも多く(それは本場のインド・タイ・スリランカ・ミャンマーなどでも有る様です)、誤解されてしまいがちなのが残念な私でもあります。

    仏教に限らず、”善いものは良い”信仰の(!?)

    From ゲージュツカのおめめ㋱~✿



    偏り過ぎると観えなくなって来るものが人間というものに有りますね。

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    1. 仏教は様々な国に流れて行き、ガンジス河のように様々なものを飲みこんでいったのでしょうね

      そのなかで砂金にあたる部分を拾い上げるのは難しい作業となりますね

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    2. 本当に仰る通りですね!
      だから仏教は「人間の数だけ解釈がある」なんて言われます。
      そしてそれは他の宗教や信仰も同じなのだと私は思いますね。(結局個々の信仰になる)

      人間である限り、皆完璧ではありませんので、どうしてもその人のフィルターや色眼鏡(その人の心の癖)を通しての、個々の解釈になってしまいますので(霊能者や占いの方達の解釈もそうだと思います)、

      結局何を信じるにも、個人個人が自分の心を磨いて、あらゆる立場に立てた(個々と全体)、正しいものの見方(正見)がを持てる様に精進して行くしかないのだと私は思っているのです。

      それにはまず日々の生活からの実践が大事だなぁと思います。

      神道でも大元の高い高い神様は、人などが直接触れたり感じたりはできないと言います。

      大元の神様は波動が高すぎて、低い人間には近づく事はできないし、又向こうから人間は気づかれる存在でもないので、高級霊がその間に入り人間と神様の橋渡しを行うと言われます。(神社でお参りする時に二礼するのは、その二つの存在に対してという事らしいです)

      ましてや又、その橋渡しの高級霊に気づいてもらうのも大変な事らしいのです!(笑)(道は遠い・・)

      だから仏陀は、人間には解りえない=妄想になってしまう神々の事は説かずに、現実的な日々の暮らしの中で出来る事(神様の事など考えないでも、神様に自動的に近づいて行ける生き方?)を説かれたのではないかと私は解釈するのです。(^^♪

      余談ですが私は昨日も神社に遊びに行きました。♫
      そしたら着くなりアオサギさんが出迎えてくれました!(^^♪
      お参りの後には大きな鴨が3羽姿を見せてくれて、今日は優雅~に池を泳いでおられました。

      そして今日はブルーグレーの翼が美しい尾長鳥にも初めて遭遇致しました!(神社って凄いなぁ!♫♫♫)

      鳥って美しいですね~。(ず~~~っと見ていたくなります♪)

      From ゲージュツカのおめめ㋱



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    3. 訂正♪

      尾長鳥に遭遇したのは、”今日”ではなく昨日です。_(_^_)_

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  2. “偏り過ぎる”一人(笑)ですが、私も、「中道」こそが、神に至る道と思います。

    それは、右でも左でもない、上でも下でもない、真ん中あたり…というような曖昧なものではなく、そこにしか神の正義(御心)はないというようなゆるぎない一点を見つけることが、「中道に入る」ということだと思っています。

    「神の正義(御心)がどこにあるか?」について、なかなか確信が持てない(あるいはすぐ勘違いする)のが、人間ではないでしょうか?

    それでも、自分のささやかな“確信”が、神の正義(御心)に適っていると信じることが、生きる支えになります。(例えそれが、“勘違い”だったとしても、それを誰も責められません。責める人間が“勘違い”していない保障など、どこにもないですから)

    宗教にも「中道の宗教」と「過激な宗教」があることが、対立の元となっているので、現代人(特に平和志向の日本人)は「特定の宗教など信じない方が無難(平和)」と考える人が増えていますが、日本人の宗教心離れこそ、戦前戦後の極端なブレをみてもわかる通り、「中道」を大きく逸脱してしまってます。(日本人って、どうしてこう極端なんでしょう?)

    日本の神々ももっと上の神々も、嘆き悲しんでおられると確信していますが、偏った見方でしょうか?

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    1. 正しさは何処にあるか人間にはなかなかわからないですけど、
      日々探求し正しさを求めることで少しずつ近づいていくと思います

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