2014年5月26日月曜日

「光の子供たち」他 ジャラール・ウッディーン・ルーミー【イスラーム神秘思想家・スーフィズム】



ジャラール・ウッディーン・ルーミーはペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人と言われ、スーフィズムの重要な人物の一人と見なされています

スーフィズムとはイスラム教の神秘主義の流れをくむもので、ヘルメス主義とも関係の深い思想だと思います



今日は日本では馴染みの薄いルーミーの詩をすこし紹介しいたします


  『ルーミー詩撰』

「光の子供たち」


あの星々の向こう側に、別の星々の輝く宇宙がある  
イフティラークの影も無く、凶兆も無き別の宇宙が。

既に知られた七層の宇宙とは、別の宇宙がある。
そしてその宇宙を、行き来している星々がある。

神の光を内在させ、神の光を以て輝きを放つ星々。
その軌道は重なるでもなければ、離れるでもなく。

あの星々を守護の星座とする者ならば誰であれ、
その魂はすれ違いざまに異教の徒を焼き滅ぼす。

神は全ての魂の上に、惜しみなく光をまき散らしたもう。
祝福されし者達は、衣をたくしあげてこれを拾い集める。

贈られた光の豊かさ、気前の良さに、
神以外の何ものも目に入らなくなる。

海に属する者は海へと還る、
いつかの道を再び還りゆく  

やがて奔流となり山頂から流れ出で、
愛と混じり合い我らの体と魂を潤す。


「聖者の水」


その水は天国から流れ来る

地上の罪を洗い流すために

罪の全てが清められた後で

かつて清らかであった水は

汚辱と罪を引き受けて濁り

あらゆる純粋と清廉の泉へ

天国へと逆巻く急流となる

水はやがて新たな光を得て

再び地上へと流れて落ちる

輝く清純の衣の跡を遺して

その水は地上の聖者の精神

その水は天国から流れ来る

病める魂に注がれる神の水

その水は天国から流れ来る

地上に罪ある限り幾度でも

繰り返し流れては再び還る

水が自ら滅びを望まぬ限り

幾度でも天国から流れ来る

天国の最も純粋な光の泉へ

神へ還る終末のその日まで


「魂の階梯」


私は鉱物として死に、植物となった。

私は植物として死に、動物となった。

私は動物として死に、人間となった。

どうして私が恐れることなどあろう?

かつて死によって失ったこともない。

それでも再び、私は人間として死ぬ。

その時は天使となって空高く飛ぼう。

だがさらなる次の階梯を目指すなら、

私は天使の姿をも脱ぎ捨てるだろう。

そして私は想像も及ばぬものとなる。

最後には全て消滅し、残るは神のみ。1

無となった私に、オルガンが告げる。

「われわれはなべて神へと還り往く」


「光はひとつ」


ランプはそれぞれ違っても、放つ光は同じひとつ。

光、それははるか彼方から届けられる。
あなたがランプに眼を奪われ続けるのであれば、
あなたはあなた自身を奪われてしまう。
ランプの種類は数限りなく、各人の嗜好もまた然り。
あなたの視線を光に転じ、光そのものを見つめよ。
そうすれば、あなたは地上における事象に特有の、
二元性の限界から解き放たれるだろう。
そのようにして新たな視線を獲得すれば、
イスラム教徒、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒の違いは、
依って立つ位置の違いに過ぎないことが理解できよう。


ヒンドゥー教徒たちが、見せ物にしようと象を連れてきた。
見物客たちは、象のつながれた暗い小屋へと入ったが、
暗闇の中では、眼で見ることは不可能だったので、
それぞれの手のひらで象に触れる以外には方法がなかった。
ある者は象の鼻に触れ、「この獣は水道管のようだ」と言った。
またある者は耳に触れ、「この獣は扇のようだ」と言った。
またある者は脚に触れ、「まるで柱のようだ」と言い、
またある者はその背に触れた。「本当に、」その者は言った、
「これは玉座のような生き物だ」と。

一人ひとりが光を放つろうそくをその手にしていたら、
それぞれの言葉に違いはなかっただろうに。

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14 件のコメント:

  1. どの宗教にも、大体”神秘主義”と”原理主義”がありますね?
    宗教に限らず、二元性で生きる人間の思考で”極めて”行くと、そういう風に両極端になってしまうのは致し方ないのかもしれませんね。

    どちらに偏り過ぎても人間は過激になって行きますから、やはり”中道”が一番安全な道なのだと思いますが、その中道を説く仏教でえ、お釈迦様の元々の教えから逸脱して過激になっている宗派もございます!(あぁ、人間て、人間て・・・!(笑))

    私、個人的には、過激でない(!?)神秘主義に惹かれます♫
    (^^♪

    From ゲージュツカのおめめ㋱

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    返信
    1. 神秘主義と原理主義は対立軸にありますか?

      幾つかの点で両極に位置するでしょうね

      削除
    2. いいえ。対立軸ではないですね。
      重なっている部分も有りますし・・・。

      どの道も極端に偏って行くと、真理から遠ざかるのは共通していると思います♫
      (^^♪

      削除
  2. こんにちは!

    私は、最後の詩文に強く心掴まれる思いになりました。

    真理(光)は完全であり、それは絶対的なものであり一つしか存在しないものであると思うのですけども、人間にあからさまに教えられていませんね。

    この詩の最後の言葉を読みますと、何とも言えない悲しい心情が湧き上がって来ます。

    洪さんの感性といいますか、霊的な背景の導かれ方に優れたものを感じる時があります。

    ここで少し白状しますけども!私の場合は『宇宙人説』には賛同はしていないんです。

    あくまで、 霊界の色んなところから輪廻転生して来たミンナと思っております。

    私のブログ(今は更新しておらず、非公開認証制にしております)で、ある霊人による霊界体感の様子の書籍を紹介しているのですが、その本の内容はとてもリアルだと思っています。

    その本の最後の部分に、 地球を遥か遠くに眺める霊界(星)の描写があるんですね。

    また後ほどに 御紹介したいと思っています。

    総じて、洪さんの感性の善さには心躍らせています!!

    この度の詩文にも、 かなり心揺さぶられました!

    考えさせられるといいますかね・・・切ない気持ちになりますね。

    では、またの御機会に!


















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    返信
    1. こんばんは

      色々な考えがあるでしょうね

      西洋では輪廻の思想が受け入れられるのにだいぶ時間がかかり、
      現在でもまだ信じていない人が多いですね

      異星人の転生も受け入れられるまでにはまだまだ時間のかかることでしょう

      削除
  3. どの方に取っても、自分で見えるもの、聞こえるもの、感じるものがその人の真実になりますから、それぞれに何かを信じている私達も、実はお互いまだ暗闇で象を触っている状態に過ぎないのかもしれませんね。(人間に生まれるとは、そういう次元ではありませんんか?)

    それぞれが見たもの、聞いたもの、感じたものを他人に証明する事はできません。
    だからこそ色々な説が生まれて来るのだと思いますしね。

    例えば死んだ時の真実は、それぞれ死んでみないと分かりませんし(笑)。

    誰かが「死後はこんな世界だった」と言っても、あくまでそれは、そういうビジョンを見た人の真実ですし、それも生前の生き方でそれぞれ違う世界を見るとしたら・・・

    あの世は行ってもやっぱり私達は”暗闇の中の象”?(笑)

    ゲージュツカのおめめ㋱

    返信削除
    返信
    1. あの世の世界も住んでいる人からしたらいろいろな風に見えるらしいですね

      一水四見といって、見るものによってはた水も四つの姿にみえるとか

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    2. やっぱりそうなのですね~。
      死んでみなくちゃ解らない・・・、否、死んでも解らない!?(笑)

      From ゲージュツカのおめめ㋱」

      削除
  4. 追伸♫

    確かにヨーロッパの人は、キリスト教(政治的に改ざんされた聖書=真実ではない教義)の影響なのか、「生まれ変わりは無い!」と言い切る方は多かった様に思います。

    たまに生まれ変わりはあるという説をいう方でも「生まれ変わりは7回だけ!」という方が多く・・・。(それも聖書からなのでしょうか???何派の?)

    それを聞く度に私は「何を根拠に7回なのか?何の教えから???」と思いましたが。
    (゜∀。)

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    返信
    1. 聖書に7回という数字はよく出てくるので、それのこじつけでしょうか

      楠正成は七生報国といっていましたが関係ないですね

      削除
    2. 信仰する方は純粋で誠実でも、信じているものがマガイものというのも良く有る話なので、或る意味信じる側の無知・無明とは恐ろしくも有りますね。

      削除
  5. こんにちは!

    信仰というものについて、あまりにネガティブに捉えてしまいますと、それはとても悲しいことですね。

    宗教にも 信仰にも、いろいろな基準があります。

    信仰者の立場としては、その動機がどこにあるのかが問題であると言えます。

    自己の欲を中心として信仰するのか(我が身・我が家庭の御利益)、 神仏への純粋な信心をもって 同じ世の人々のことにも愛を持って関わっていこうとするのか、 この二つの信仰姿勢に分かれてくると思われます。

    人のすることには、すべて動機が重要であるということですね。

    宗教を興す教祖の方についても、 天の前にどのように自分の立場を分別しながら歩むのかの闘いと、プラスこの世に如何にお役立ちしていけるのかということについて深く考えなければならないと思います。

    「山をも動かす信仰があったとしても、 愛がなければ無である。」

    聖書の言葉ですけども、誠の信仰だけ持てばいいのではなく 愛も!!重要必須なるものなのですね。

    私は、神様(創造主)大好きです。

    ですけども、普段の生活圏の中では 神様のことを考えることよりも!人を愛していく心(真心)を大切にしたいと思っています。











    信仰の世界というものは、その宗教が真であればあるほど、 真剣に行こうとするならばその道程は険しくて、信仰者でも心揺らすことも多々あり 最後まで信じきって自らの霊肉共を修め世界でもあります。

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    1. 日本人はご利益信仰がおおいですね

      世界的には唯物論国家の中国より日本のほうが不信人の人が多いと聞いたことがあります

      削除
  6. こんばんは。

    洪さんが指摘されておっしゃられますように、 民主主義国家ではあるけれども日本などは特に宗教立国でもなく、国民の思想もこれといって統一はされていないお国となりますので、信仰の軸たるものを持つ人口数はやはり少ないと言えると思います。

    御利益信仰はしたくないと思っております。

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