2013年3月8日金曜日

小さな花のスピリチュアルメッセージ 4



なぜ どうしてとあなたは問う
自らが不幸にあった時
世の中の不正や悲しみを見た時
なぜこのような目にあうのか、神がいるのなら答えてくれと祈る

答えを求めてさ迷ったり、人に頼り、あるいは諦めてふさぎ込む
沈黙の内に答えられているのではないか
他人や社会が何をしてくれるかではなくあなたが何をするのかを問われているのではないか
世に問いかけるのではなくあなたが問われている存在なのだ

まるで雛鳥が口を開けて親鳥が餌を与えるのを待っている
まわりを見渡すと同じく餌が足りないとただ鳴き叫ぶ雛がそこかしこにひしめいている
誰かがそれに気が付き、今度は自分が与える側にたとうとする
多くの者が気が付き、与える側にたつとき人類はかわる
新たな世界となる


憎しみ恨み嫉妬や不平不満
これらは自らを汚し人をも傷つける思い
しかし本当のところは愛を求める行為の裏返しとなっている

憎しみは相手が愛してくれないと思うから

恨みは愛を理解してくれないと思うから

嫉妬はその人のように愛されたいと思うから

不平不満は自分に与えられる愛が足りていないと思うから

このような思いとは愛を得ようとしていまだ満たされないという考えから出ています

愛のある人は自らがたくさんの愛を与えられていることを知っています

愛は見返りを求めない与えんとする思い
すでにたくさんのものを与えられていることを知り、人にも分け与えんとする
優しさは愛

安らぎは愛に満たされていると感じる時に生まれます

感謝は愛されていることを知ること

愛するのは自らに与えられてきたたくさんの愛を分け与えること

悔い改めは拒んできた愛を素直に受け入れること


愛を奪い得ようとする思いと、愛を与えんとする思いに分かれます

このように両極端に分かれる思いも、結局のところ足らざることに目を向けるか、満ちていることに目を向けるか、
あるいは真の愛を受け入れずに必死にまわりからかき集めようとしているか、素直に受け入れまわりにも分け与えようとするかの違いとしてあらわれています

どちらも愛についての考え方にてわかれていると言えます

いつまでも満たさないと砂漠をゆく旅人のようにさ迷い歩くのか
汲めども尽きず永遠に渇くことない泉を飲むか

どちらを選ぶでしょう

天から溢れる愛を肉体我が拒んでいる

人が肉体に宿ってより、自らでないことを経験します
それは自らの本質を知るために
そのためには反対の体験をしなければわからなかいからです
肉体に宿ることでこの世界を体験することができます
他者との分離と本質でないものを知ります
ですが人は本質でないものを自らと錯覚してしまいます
エゴの錯覚は自と他を分けて分離を学びます
そして錯覚に囚われることで人は満たされないと感じるようになりました
満たされぬ思いは精神の渇望となり、まわりから愛というエネルギーを奪うことで癒そうとします
ですが海水で喉の渇きを癒そうとする哀れな漂流者のようにますます渇きは激しくなります

悔い改め感謝して生きる霊には汲めども尽きぬ命の水が湧いてきます
その水は分かち合うほどにますます水量を増していきます

自らを通して神の愛を世に流していく

没我は真実の自己に目覚める

我を無くすとは個性を消すことではなく
神の道具として生きることが真の自己実現であり
個性を発揮していく道となります

パイプが流れる水を自らのものとしては流れなくなる

世に光の足りないのは光のせいではない

天と地を繋ぐ柱たる人間が流れをとどめているから

栄光は神にお返しして自らは謙虚に生きる

愛の光を降ろすパイプ役として働いていた者がいつしか自らの力と過信し、役割を取り違えることがよくあります

ですから自らは道具として働いていると自覚し、栄誉は天の父へと帰すように

愛の光であふれれば地球はユートピアとなっていく

干からびた大地にはまだまだ水が足りていない
天から降る水で潤せば世は緑豊かな大地へと生まれ変わる

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