2012年11月15日木曜日

マグダラのマリアとグノーシス 【スピリチュアルブログ】



初期キリスト教にグノーシス派がありました
グノーシスとは知識・認識の意味で彼らは自己の本質の認識(グノーシス)による神性の解放を目的としています

ですが後には異端として迫害され消滅しました
グノーシス派にとっては個々人の魂の認識による向上が重要であったため、ローマカトリックにとって教会の権威が重要とされず、厄介なものと思われたのでしょう
教会の権力者からしてみれば教会を通して救いがなされると信じ込ませたほうが自分達に都合が良いからです

グノーシス派は初期キリスト教の弟子の中でマグダラのマリアを重要視しました
マグダラのマリアは今のキリスト教の中では娼婦であったとされ重要視されることはありませんでした
ですが聖書を読んで見ると不思議なことに気付きます
イエスが捕まりゴルゴタの丘に向かうまで十二弟子達が蜘蛛の子を散らすように逃げ出した中、女性信徒の先頭になってイエスについていったのがこのマリアとされています
そしてイエスの足に油を注ぐ場面では、彼女は弟子に諫められますが、イエスが彼女をかばう描写があります
そしてもっとも重要なシーンは十字架にかかり亡くなられたイエスが一番始めに復活して見せたのが他ならぬこのマグダラのマリアであったことです
十二使徒の前でもなく、聖母マリアでもなく、マグダラのマリアの前にはじめに復活した姿をあらわしたのは彼女をイエスがもっとも重要とされていたからではないでしょうか

現代では四つの福音書がありますが、かつて異端として排除された書の中に「マグダラのマリアの福音」があります
グノーシス派が重要視したものとされています
1945年にエジプトのナグ・ハマディでコプト語で書かれた写本が見つかりました
グノーシス派の文献とされるトマスの福音書などとともにマグダラのマリアの福音書が発見されたのです
残念ながら欠落しついるページも多いようです
残った部分は短いですがかいつまんで紹介させていただきます

最初の数ページは欠落しイエスの死後弟子たちが集まって悲しみ、泣いているシーンからはじまります
そこへマグダラのマリアが立ち上がって彼らを励まします
『泣かないでください』『イエスの恵みがあなたがたと共にあり、護ってくれる』『それよりも彼の偉大さをたたえるべきです』
マリアが弟子達を励まし「伝道していきましょう」と力付けています
それを聞いたペテロは「イエス様が他の者よりもあなたを愛したことを私たちは知っている。あなたしか知らないイエスの言葉を私たちに教えてくれ」と言います
上記を読むとグノーシス派ではマグダラのマリアは十二使徒よりイエスに親しい方だったと考えていたのがわかります

そしてマグダラのマリアは生前のイエスから聴いた話しではなく、霊としてのイエスとの語らいを想わせることを述べます

「私は一つの幻のうちに主を見ました」 そして、幻のイエスが語った内容は……
残念ながら、ここで再び数ページが欠落しています。
続きの訳文を少し長くなりますがそのまま記載します

そして渇望は言った:’私はあなたが落ちていくのを見なかったが、今私はあなたが上昇しているのを見ている。あなたは私に届いているので、何故嘘をつくのですか?
’魂は答えた:’あなたは私をみなかったし、私を認めなかったが、私はあなたを見た。私は衣服のようにあなたと共にいたが、あなたは決して私のことを思わなかった。
’こう言った後、魂は大いに喜びながら出発した。それから無知として知られている、3番目の風潮(風土)へ入った。
無知は魂のことを尋ねた:’私はどこに行くのですか?あなたは邪悪な性向に支配されている。実際、分別を欠き、従属している。
’魂は答えた:’何故、私を判断するのですか?私は判断していないのに。私は支配されているが、自らを支配してこなかった。私は認識されていないが、認識してこなかった地上や天にあって構成されるものは全てが分解されることを。
「この3番目の風潮から解放されているならば、魂は上昇を続けるだろう。そして4番目の風潮の中にいることに気付くだろう。
これは7つの現れがある:
最初の現れは、暗黒であり、
2晩目は渇望
3番目は無知
4番目は致命的な嫉妬心
5番目は肉体への隷属状態
6番目は舞い上がった英知
7番目は狡猾な英知
これらは激しい怒りの七つの現れであり、魂を疑問で押しつぶしただろう。
「殺人者よ、あなたはどこからきて、放浪者よ、どこへ行こうとしているのか?」
その人は答えた:「私を悩ましたものは殺されてしまっている。即ち、私を取り囲むものは消えてしまった。私の渇望は消えていったし、私は無知からも解放されている」
「私はもう一つの世界の助けにより、世界に離れた。即ち、計画は消されたのだ、より高い計画によって。これ以後は、静寂へ向けて旅をし、そこでは時が時の永遠性の中にある。私はいまや沈黙の中へ行っている。」
これら全てを語った後、マグダラのマリアは黙った。というのは、師が彼女に話したのは、まさに沈黙の中においてだったからである。


これを読んで皆さんはどう感じたでしょうか?
私はこれはまるで初期仏典ではないかと驚きました
スッタニパータなどの初期に成立したブッダの教えを読んでいるように感じられました
暗黒や渇望、無知嫉妬心、肉慾などを越えてグノーシス(認識)の光をもって魂が上昇の旅に立つさまは、仏教の六大煩悩である「貪・瞋・痴・慢・疑・悪見」を離れて無明から悟りによって涅槃に到達する魂の修行を想わせます
そして一つ一つ打開していき魂がより高次の意識状態に上昇していく世界観は、仏教の霊界の構造の説明に通じます

マグダラのマリアが幻視したビジョンを話し終わると、ペテロとアンドレという弟子が怒りだし彼女を批判します。
「救い主がそんなことを言ったとは信じない」「今のは、イエス様のか? そんなはずはない」
それらの非難に、マリアは泣きながら言い返します。「では、私が嘘をついているというのですか?」
そしてレビという人が言います。 「ペテロよ、いつもあなたは怒る人だ。イエス様が彼女をふさわしいものとしたなら、彼女を拒否するあなたは何者なのだ」
聖レビがこれらの言葉を述べると、彼らはみな福音を広める為に出発した。

以上がマグダラのマリアの福音の簡単な内容になります

グノーシス派のもつ思想が現われよくている書だと思います
彼らはイエスの教えの中で失われたスピリチュアルな部分を伝承し、その元はマグダラのマリアにあったのではないかと思います


テンプル騎士団は異端のかどで拷問され、彼らはバフォメットという悪魔を信仰してたとして迫害されました
実際はぬれぎぬでフランス王に多額の債権があり、それを帳消しにしようとしてテンプル騎士団は潰されたようです
このフランス王はユダヤ人に対しても財産を没収して追放するなどの迫害もしています
因みに13日の金曜日が不吉とされるのはテンプル騎士団の集団検挙がその日だったからとされています
そして長年テンプル騎士団が信仰したとされるバフォメットとは何だったのかが議論されてきました
今まではイスラム教のマホメットのことだったとされる説が有力視されてきました
しかしイスラム教と戦い聖地を奪取しようとした彼らが実はイスラム教徒だったとするのは無理があるでしょう
単に文字が似ていることによる誤解でしょう
最近、聖書学で使われるアトバシュ暗号をもちいて解読されたかたがいます
バフォメットという言葉をアトバシュ暗号で解読すると一つの言葉が浮かび上がるのがわかりました
それはソフィア(SOPHIA)という言葉でギリシャ語で叡智をあらわします
そしてグノーシス派が信仰していた創世の女神の名こそソフィアなのです
そしてグノーシスでは女神ソフィアはマグダラのマリアと同一視されていたとされます

つまりテンプル騎士団は神殿跡地で古代の失われた福音書を見出だし、グノーシス派の信仰を復活させた可能性があるのではないかと私は思います


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1 件のコメント:

  1. 私も、始めてこの『マリアの福音書』を読んで、その中に述べられている内容は、キリスト教の教えと言うよりも仏教の教えに近いと思いました。しかし、この福音書の解説をされている方が、外国人のキリスト教関係者であったので、その内容をグノーシスの物差しでしか解釈ができなかったのです。もし、仏教研究者が『マリアの福音書』を読んでみたのなら、実はマリアという女性が、イエスから小乗仏教の教えを受けていたという事実を認識することでしょう。そしてペテロなどの弟子達は、何故この内容が理解できなかったのかというと、弟子達は、ユダヤ教にとらわれすぎていて、小乗仏教の教えを受けるための準備ができていなかったのです。
     そしてこの『マリア福音書』から見えてくることは、このマリアのイエスから受けた教えの内容を通して、ナザレのイエスが若い時に、インドやチベットに行き、バラモン教や仏教を学んで戻ってきたということを示しているのです。つまり、イエスの内証とは、仏教であって、もともとキリスト教という形の教えはないということを意味します。そして仮にキリストの教えについて説くのであれば、それはユダヤ教という誤った教えに囚われている弟子達を仏教の教えに導くための橋渡しの仮の教えという形で、ナザレのイエスの教えという形で、キリスト教という教えが存在しているということなのかもしれません。

     そしてマグダラのマリアは、イエスからユダヤ教ではなく、仏教の教えを受けたのです。しかし、弟子達は、ユダヤ教にとらわれすぎて、受け入れることができなかったということが、マリア福音書の中に読み取ることができると思います。

     そのようなことで、マリア福音書について、キリスト教関係者によって、グリーシス的に分析するのではなく、仏教の教えを通して分析することを通して、ナザレのイエスの本当の姿の一端を私達は知ることができると思います。

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